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第8回トリエンナーレ豊橋 星野眞吾賞展 12月26日まで

明日の日本画を求めて

 愛知・豊橋市美術博物館で2021年11月30日~12月26日 、「第8回トリエンナーレ豊橋 星野眞吾賞展—明日の日本画を求めて—」が開催されている。 今回の8回展はもともと、2020年の開催予定だったが、新型コロナウイルスの影響で2021年に延期された。

 星野眞吾賞(大賞)は、佐々木菜摘さん(山形市)に決まった。

 日本画の可能性を探究し、戦後美術史に大きな足跡を残した豊橋市出身の日本画家、星野眞吾さん(1923~1997年)にちなみ、星野さんと妻の日本画家、高畑郁子さん(1929年生まれ) が、後進の支援・育成を願って豊橋市に託した寄付(後の寄付を含め、総額4億円)を基金として、1999年に始まった。

 8回展では、197点の応募があった。会場には、このうち、星野眞吾賞(大賞)1点、準大賞1点、優秀賞1点、入選54点と、前回大賞受賞者の賛助作品1点を展示している。

 審査員は、審査員長の吉田俊英さん(美術史家・四日市市立博物館長)と、菊屋吉生さん(山口大学名誉教授)、野地耕一郎さん(泉屋博古館東京館長)、三頭谷鷹史さん(美術評論家)、佐藤道信さん(東京藝術大学教授)の5人。

 特集展示「星野眞吾と高畑郁子」も開いている。 高畑郁子さんは創画会で活躍。インドの仏やヒンドゥーの神々が散りばめられた独自の様式を確立した。 2003年に豊橋市美術博物館で高畑郁子展が開催されている。

入賞・入選

星野眞吾賞(大賞) 佐々木菜摘(山形県山形市)

佐々木菜摘(山形県山形市)

準大賞 山本雄教(京都府京都市)  

山本雄教(京都府京都市)

優秀賞 因幡都頼(神奈川県川崎市)

因幡都頼(神奈川県川崎市)

審査員推奨

六無[吉田俊英]

六無

田住真之介[菊屋吉生]

 田住真之介

小谷里奈[野地耕一郎]

 小谷里奈

佐々木綾子[三頭谷鷹史]

佐々木綾子

加茂那奈枝[佐藤道信]

加茂那奈枝

 大賞、準大賞、優秀賞、入選・審査員推奨5点は、本展終了後の2022年1月ごろ、UNPEL GALLERY(東京都中央区日本橋3-1-6) に展示される。

 星野眞吾賞(大賞)には副賞200万円、準大賞には副賞100万円、優秀賞には副賞50万円が贈られる。

レビュー

 戦後、豊橋市を中心とする東三河地方からは、中村正義さん、星野眞吾さんなど、個性的な日本画家が多く輩出した。

 30代のころ、中日新聞の美術記者だった筆者は、1990年代から2000年代にかけ、豊橋市を訪れては、豊橋市美術博物館などで取材を重ねる機会を得た。

 1996年には、ちょうど「記憶の痕跡-星野眞吾展」が豊橋市美術博物館で開催された。星野さんと高畑さんが会場で丁寧に説明してくださった記憶がかすかにある。

 「第1回トリエンナーレ豊橋」が開催された1999年も、そんなころである。当時は、1994年にVOCA展、1999年に夢広場はるひ絵画展(はるひ絵画トリエンナーレ)が始まるなど、従来の団体展とは異なる公募展が開催されるようになった時代で、筆者も、そうした動きを注視した。

 トリエンナーレ豊橋は、自治体主催ながら、星野さんと高畑さんの深い思いと、2人からの4億円もの寄付金を基に運営されていることを含め、独特である。

 また、今となっては、 他ジャンル以上に公募団体のしがらみが強くある「日本画」をテーマにしていることも大きな特徴である。

 星野さんは1949年、三上誠さん(1919〜1972年)らとともに京都でパンリアル美術協会を旗揚げ。日本画壇の事大主義や公募展などに反対し、自身の肉体を「人拓」として刻印するなど独自の表現を続けた。

 つつましい生活を送りながら、絵画に人生を捧げ、晩年に各地の美術館に収蔵されたことで手にしたお金のほとんどを寄付した2人の純粋な思いが、この公募展の土台にある。

 星野さんが生前、自分の名前を展覧会に冠することすら遠慮されていたという話を豊橋市美術博物館学芸員の方から聞き、この公募展の意義と発展を思わずにいられなかった。

 筆者は、この展覧会を久しぶりに見て、バラエティーに富んだ作品をとても楽しめた半面、賞をつける難しさも感じた。

 それは、評価軸の問題で、このコンペに限った話ではないが、トリエンナーレ豊橋では、「日本画」という枠組みがあるので、なおのこと複雑になる。

 それは、2021年のはるひ絵画トリエンナーレでも感じたことだが、形式面、技術、個性や新奇性など、ポイントはさまざまであり、それに審査員の好みが加わると、もはや、評価はバラバラである。

 「○○の作品に似ている」という判断があると、賞から遠ざかるが、丁寧に見ていくと、そこに独自の世界観がある場合も少なくない。

 また、形式ばかりに捉われると陳腐になりかねないし、内容(テーマ性)を生真面目に見すぎると、状況反映論的になって、それも面白くない。

 最近は、「わけのわからなさ」「説明のしがたさ」が受賞につながることもある気がする。

 2021年のはるひ絵画トリエンナーレでも、さまざまなこれらの評価軸が渾然としていた印象を受けた。

 豊橋の場合、公募要項に「日本画(従来の概念にはとらわれない)」とあり、「日本画」の概念を出品者自身が解釈することになっていることが最大の特長になっている。

 それでも、「日本画」は、かなり制約的な条件として機能するし、「日本画」をどう解釈するか、新しさをどこに求めるかは難しいように思う。

 今回、筆者は、とにかく多種多様な傾向と、「日本画」に真摯に打ち込んでいる画家の思いが伝わる作品群に触れられ、とても良い鑑賞の時間をいただけた。

 「いいなあ」と思える作品はいくつもあったし、個展を取材したいと思わせる作家もいた。

 同時に、これは主催者側の話だが、公募展という方法論を取る以上、ただ、作品が集まるのを待つ姿勢では、マンネリ化するのは否めない。

 星野さんが願ったように、若い作家たちの、できるだけ幅広く、ユニークな作品が集まるような方向性、改革を常に念頭に置いてほしいと思った。

星野眞吾

 1923年、豊橋市に生まれ、豊川市で育った。1942年、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学。 1948年に、三上誠を中心に山崎隆、不動茂弥、八木一夫らと前衛グループパンリアルを結成。翌1949年、下村良之介、大野俶嵩らを加え、日本画科卒業生によるパンリアル美術協会が発足した。

 1950年に帰郷した後も、パンリアル展に出品を続け、日本画の概念にとらわれない抽象的、実験的な作品を発表。1964年、父親の逝去を契機に「人拓」シリーズが始まった。

 糊をつけた身体を和紙に押しあて、その痕跡に岩絵の具を付着させるという独特の手法。当初は手のひら、足の裏など身体の一部だったが、やがて対象は全身に及び、身体各部を組み合わせた多様な形態を画面上に展開した。

 ガラス片、画鋲、ビニールなど無機質な物体も、画面の中に克明に描き込まれた。

 1974年、中村正義、斎藤真一、佐熊桂一郎、大島哲以、山下菊二田島征三と人人会を結成。

 1985年、福井県立美術館で「三上誠・星野眞吾Ⅱ人展」が開催された。1996年には、豊橋市美術博物館と新潟市美術館で、「記憶の痕跡―星野眞吾展」を開催。1997年、逝去。

 その他の主な展覧会

 1986年「戦後日本画の一断面」展(山口県立美術館)、1987年「現代のイコン」展(埼玉県立近代美術館)、「日本画の4人展-大野俶嵩・下村良之介・星野眞吾・三上誠」(和歌山県立近代美術館)、1988年「日本画 戦後の歩みⅡ」展(いわき市立美術館)、1990年「日本画 現代の視覚」展(新潟市美術館)、「燃焼の時代1950年代京都の日本画」展(京都市美術館)、1993年「近代日本画への招待Ⅲ-戦後日本画の展開」展(山種美術館)、「戦後日本画の転換期展-1950年代を中心に」展(栃木県立美術館)。

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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