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磯部錦司展 ガレリアフィナルテ(名古屋)で2025年5月13日-6月7日開催 

ガレリア フィナルテ(名古屋) 2025年5月13日〜6月7日

磯部錦司

 磯部錦司さんは1959年、岐阜県中津川市生まれ。1990年代前半から絵画作品を発表している。1994年に最初の「VOCA展ー新しい平面の作家たちー」に出品している。

 当時の出品者に赤塚祐二福田美蘭、平体文枝、菊地武彦、小林正人、児玉靖枝、小池隆英、小山利枝子、丸山直文村上隆岡崎乾二郎、大竹伸朗、佐川晃司設楽知昭、菅原健彦、館勝生山口啓介、 吉川民仁、吉澤美香らがいた。

 1回目で、美術評論家や各地の学芸員が、当時の力のある若手平面作家を一斉に推薦したこともあって、錚々たるメンバーになっている。

 磯部さんも、そうした1人だが、彼の、どちらかというと現代美術という雰囲気とは異なる土俗的な作風は、少し趣を異にしていたように思われる。

 国内外で作品を発表してきたが、名古屋では、一貫してガレリア フィナルテである。筆者が新聞記者のころ、磯部さんを取材したのは、1997、98年。

 磯部さんは、木製パネルに和紙や戦前の新聞などを貼り、アクリル絵の具などで描くのが基本。そのうえで、積み重ねた絵具や古紙などを彫刻刀で削る。その痕跡は支持体である木まで削られるほどの烈々たるものである。

 荒々しい画肌、抉られたような痕、力強いマチエールから受ける溢れんばかりのエネルギー、プリミティブな印象は1990年代から変わっていない。

2025年 個展

 決して洗練された美しい絵画ではない。形式的に絵画を探求した作品でもない。1990年代には禅画に見られる円相が描かれ、それは今も引き継がれている。

 また、今回の多くの作品では、矩形の窓が見られるが、基本的に混沌とした画面であることに変わりはない。

 削られた板、古新聞の文字や和紙の質感、絵具の盛り上がり、滲み、飛沫、混濁などが重なるように全体を覆っていて、具体的な指示対象を確認することはほとんどできない。

 積み重なった時間の堆積であると同時に、ある種、執拗なまでに多義なるものが封じられた、濃厚で謎めいた不可解な世界である。

 自身の体が五感で受けてきた風土、気候、動物、植物、人間社会の全ての「自然」に向き合う作業。そこに描かれているのは、磯部さんが呼応する世界、大地と海、全体性の生命ともいえるものだ。

 磯部さんは、椙山女学園大学教育学部で美術を教え、子ども向けのワークショップも数多く手がけてきた。そうした教育、研究の中で深められた、生命観に根ざした造形という基本姿勢は、彼自身の制作の根幹によって培われたものであろう。

 つまり、こうした土俗的な力強い画面は、この場所、この風土、この社会で生きる彼自身の生命の感覚そのものなのだ。

 注意しなければいけないのは、そうした感覚は、単に自分の閉じた心情を吐露するものではなく、他方、普遍的な真理、客観的正しさでもないということだ。

 磯部さんにとって、作品とは、ひとりの人間(生命)が、この世界と結ばれ、一体化しつつも自分を失うことなく、なんとか世界を客体化しながら、受け取り、そして発信する、唯一のいのちの証だということである。

 三人称で語るように世界を一般的に解釈する、理解することではなく、一人称の個人が、この世界という不思議さに満ちた、うつろいゆく他者に対して、自己完結することなく、分別智を離れて、常に開かれ、出合いの中で自分なりの意味を生成させていくことだ。 

 その意味で、 彼は日本というこの場で描くことを重視している。深い森と大地、厳しくも豊かな自然、気候、社会の重々しさの中で、さまざまな命が蠢き、それらのつながりの中に、自分の命の滴があるということ。

 いくつかの作品で見られる青い矩形の窓は、そうした小さく、はかなくとも、それゆえに貴い生命のみずみずしさのように思える。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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