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あいちトリエンナーレ対談 ホー・ツーニェン×浅田彰

 2019年10月14日に閉幕した「あいちトリエンナーレ2019」で展示された数多くの作品の中でとりわけ評価が高かった作品の一つが、シンガポールのアーティスト、ホー・ツーニェンさんが元旅館の日本家屋「喜楽亭」で展示した映像インスタレーション作品「旅館アポリア」である。閉幕前日の10月13日、ホー・ツーニェンさんと批評家の浅田彰さんの対談が愛知・豊田産業文化センターで催された。

 ホー・ツーニェンさんは、作品の中で、西洋思想を踏まえながら東洋思想による西洋近代の超克を図ることで、戦時中の日本の大東亜共栄圏の思想を支えたとされる京都学派の哲学を扱うなど、先の戦争の文化的、学問的背景をリサーチして展開している(「あいちトリエンナーレ リポート 豊田市美術館・同市駅周辺①」)。

 「ホー・ツーニェン《旅館アポリア》再現展示 12月4日-1月23日」「ホー・ツーニェン『ヴォイス・オブ・ヴォイドー虚無の声』展 10月に京都で開催」「ホー・ツーニェン 百鬼夜行 豊田市美術館で10月23日-1月23日」も参照。

あいちトリエンナーレ2019展示風景 ホー・ツーニェン
《旅館アポリア》 2019年 Photo: Hiroshi Tanigawa

 浅田さんは、「アポリア(哲学的難題)」という名の旅館を意味する「旅館アポリア」というタイトルが、ルカーチがアドルノを「『深淵』という名の大ホテルで議論しているだけだ」と批判して語った《Grand Hotel Abgrund》(グランドホテル「深淵」)を連想させると説明した後で、ホー・ツーニェンさんに作品の着想について質問した。

 ホー・ツーニェンさんは、直接の契機となったのは、キュレーターの能勢陽子さんから喜楽亭での作品制作を提案されたこととした上で、能勢さんがアーカイブをリサーチする中で見つけた喜楽亭の元女将のインタビューからのインスピレーションが大きかったと振り返った。その中で触れられていたのが、(筆者補足:豊田市浄水町にあった伊保原飛行場から出発した)神風特別攻撃隊草薙隊が飛び立つ前に最後の晩餐を喜楽亭でしたこと、後に、草薙隊の家族が喜楽亭に集まって、亡くなった息子を偲び、会食したというエピソードで、ホー・ツーニェンさんにとっても強い印象を残した。

 その時は、作品が最終的にどうなるかは見えていなかったが、一方で、京都学派については、かなり以前からリサーチしていた。この作品をきっかけに、京都学派のことと神風特攻隊のことが一緒になって作品の構想が進んだ。もう一つ、この作品の重要な人物である小津安二郎はもともと好きで、ほとんどの作品を見ていた。小津映画には、酔った男性が飲み屋で戦友に出くわし、歌う場面がよくある。その中にシンガポールのことが出てくることに興味をもち、小津が戦時中にシンガポールでどんな時を過ごしたのか知りたいと思った。つまり、小津と神風特攻隊、京都学派、喜楽亭という元旅館のことが1つに編み上がって、この作品になった。旅館をどう使うか考えたときに、最初にイメージしたのは、旅館のそれぞれの部屋がそれぞれの登場人物によって使われているということ、背景も出自も違う人たちが、複雑な戦争の時代を生きたということだった。

 こうしたホー・ツーニェンさんの説明に対し、浅田さんは、作品の中には、横山隆一の漫画、田河水泡の「のらくろ」、島田啓三の「冒険ダン吉」など、イデオロギー的な役割を果たした漫画も出てくると補足。その上で、ホー・ツーニェンさんの作品は、全体として、映画、舞台でいう「グランドホテル形式」をとっていて、いろいろな人間模様が繰り広げられ、それぞれの人がそれぞれの人生を生き、別々のことを考えていながらも、1つの運命を共有するような形で展開しているという意味で、改めて、《Grand Hotel Abgrund》(グランドホテル「深淵」)の日本版であると述べた。

 ホー・ツーニェンさんは、横山隆一のことを、小津など、戦争中にプロパガンダの一環でシンガポールなど東南アジアに送られた人たちを調べる中で知ったという。横山と小津はホー・ツーニェンさんにとって対照的な存在だった。横山が「フクチャンの潜水艦」(1944年)などのプロパガンダ・アニメーション映画を作ったのに対し、小津がシンガポールに行った理由の一つは、インドの独立運動家、チャンドラ・ボースの映画を制作するためだったが、日本敗戦後、英国軍が来る前に脚本を破棄したということになっていて、プロパガンダに加担しない立場だった。シンガポールで小津は悠々自適な時間を過ごし、飲み歩き、テニス、プールを楽しみ、日本では見られない米国映画を多く見ている。一方、横山は、残っているインタビューの記録では、戦時中のプロパガンダへの協力について聞かれると「後悔はない」と答え、国からの要請があればまたやる覚悟だと明言している。同じ戦時中を生きても、二人の人生の選択は違っている。

 こうしたホー・ツーニェンさんの説明を受け、浅田さんは、京都学派について「ロジカルというよりはレトリカル」で、同時に「図式的」でもあったと発言。西田幾多郎について、鈴木大拙(禅をはじめとする仏教について英語で書き、ジョン・ケージ、抽象表現主義などのモダニストに非常に大きな影響を与えた)の方がまだ明快で、西田幾多郎は、禅の体験の中で体で感じ取ることを言葉で言おうとしているから、無理なレトリックを反復していて、修辞学への加重があると説明した。

 一方で、浅田さんは、逆説的に、京都学派は一般的に、西洋に対する東洋という非常に図式的な構図で議論を組み立てるきらいがあるとも説明。西洋で、全体論(ホーリズム)と要素論(アトミズム)の関係の中で弁証法が起こるのに対し、東洋では、全体でも要素でもない関係のネットワークが重視され、人と人の間と書いて「人間」とするように、人間は関係性の結節点だとするため、西洋における全体論と要素論の二項対立がエコロジカルな関係性によって超えられる、となる。図式的で明快だが、では関係主義というのは何なのか、というとよく分からないという。

 京都学派について、浅田さんはさらに、西洋での全体主義と個人主義の二項対立、あるいは全体主義の中のスターリニズム的な共産主義と、ヒトラーやムッソリーニのファシズムの対立、それに対して、英米の自由資本主義があるのに対しても、関係主義、三木清の言葉で言えば、「協同主義」で超えられる、東洋の知恵によって西洋で起こっている全ての二項対立、三項対立を超えられる、となる。それは非常に図式的な言語ゲームの上でのことで具体性を欠いていると解説した。

あいちトリエンナーレ2019展示風景 ホー・ツーニェン
《旅館アポリア》2019年 Photo: Hiroshi Tanigawa

 浅田さんによると、西田幾多郎は「日本文化の問題」(1938年から京都大学で講義し、40年に刊行)でそういうことを書いていて、昭和天皇にも既に真珠湾攻撃(1941年12月8日)の前のご進講で言っている。森は全体でもなければ、バラバラでもない。エコロジカルな関係のネットワークである。社会もそうでなければいけない。アジアも、欧米のように全体を植民地として支配するのでなく、トランスナショナルかつエコロジカルなネットワークなものにし、日本は盟主でなく、リーダー役にはなるが、英米の植民地主義、帝国主義に取って代わるものではない。新しいヘゲモニーになってはいけないということを言っている。

 浅田さんは、西田幾多郎が禅の体系について言っていることは、東洋武術の人がよく言うようなことで、典型的なのは李小龍(ブルース・リー)だとも比喩的に説明。西洋では、筋肉の鎧をまとい、硬く自分を作り上げる、主体と主体がぶつかり合って闘争する、その結果、次のものが出てくるという弁証法がある。一方、東洋は、水のように柔らかく、相手の突きを受け止めて、エネルギーをひゅっと捻ることで相手が勝手に倒れるという、つまりは柔術、ソフトな身体技法である。水のように柔らかくフレキシブルなもの、それは西田幾多郎に聞かなくても、ブルース・リーがやっていることである、と。

 そして、西洋では、存在の中の存在である神がいて、朕は国家であるという絶対君主、近代では大統領とかがいて、国家が上から植民地主義、帝国主義で支配するが、東洋は違うと。すなわち、日本の天皇は、朕は国家なりとは言わない、皇室は究極の「無の場所」であるという。存在ではないので、空白によって全てのものを水平に包摂できる。武術の人がよく言う「己を空しうして他を包む」の究極バージョンで、究極の空白である。全てを柔らかく包むこむことができるから、トランスナショナルでエコロジカルな、世界の中心ならざる中心であって、空虚なる中心である。それにふさわしいのは皇室であり、そういう大東亜共栄圏をつくろうではないかと言ってしまった。そして、陸軍がミリタリスティックで全体主義的、西洋に変わる植民地主義、帝国主義だったのに対し、どちらかと言えば、海軍はトランスナショナルにやった方がいいという考えだったから、ぎりぎりのリベラリズムを守ろうとしたと言えなくはないが、アジアの国々が納得するとは思えない。

 浅田さんの説明に対し、ホー・ツーニェンさんは、鈴木大拙や京都学派の一貫性の無さについて言及。鈴木大拙の初期のテキストを読んだときにも違和感はあっが、彼の中でも1939年から45年までの6年間で考え方は変わっていて、最初は違っていたが最後の方は中国への侵略は1つの宗教的アクションであるというようなことを書いている。「中央公論」での当時の議論でも、京都学派の考え方が対米戦争は部分的に反対を示しているところがある一方で、アジアについては、そういうことは書かれていない。アジアの国には戦争さえも成立せず、日本がアジアの中でリーダーシップを発揮するのがもともとある権利のように書かれていて、それが大東亜共栄圏の考えにつながると思うが、それは西田幾多郎だけの考えというより、その時代の症状の一つと考えているなどと話した。

 ホー・ツーニェンさんは、こうした京都学派の一貫性のなさ、矛盾が興味深く、京都学派を研究したいと考えた理由もそこにあると強調。例えば、彼らの汎アジア主義、ユートピア主義的な主張も、他のアジアの国々からすれば迷惑に過ぎないし、そうした矛盾を抱えた考えがアポリアであり、深淵であるとした。

 ホー・ツーニェンさんは、汎アジア主義の考え方は、アジアの中の国境をなくしていこうということだが、実際には、20世紀前半、汎アジア主義を掲げることで、非常にナショナリスティックな、国家主義的な運動につながっていったという一貫性のなさもあると指摘。20世期前半、アジアの中の植民地主義には反対だけど、ベトナムや中国などアジアの国の、ナショナリスティックな考えを持ったリーダーたちが、日本の右派、保守派、ナショナリストと深い関係を築いてコミュニケーションをとっていたという矛盾、汎アジア主義を掲げて、国境をなくそうとしながら、ナショナリスティックな考えをしているリーダーたちが道を模索していた状況についての高い関心を示した。

 ホー・ツーニェンさんが強調したのは、西田幾多郎の葛藤を評価したいという点だった。「無」については、当時の学者たちも、どう表現するか悩んでいたのであって、難解な抽象的なアイデアでいかようにも変容できる考えだったことが危険な思想につながる原因でもあったが、興味深い点でもあったという。彼らの思想に対する批判は十分理解しながら、同時に西田幾多郎が最初に出版した「善の研究」に感動したところがあって、読み進めると、彼自身の苦悩がありありと浮かび上がっていて、どういうふうに欧米の文化、力と対峙し、自分たちを見失わずに、西洋を取り入れながら西洋と東洋の違いを理解するかの思考の苦悩が描かれている。新しい思想の基礎を築こうという彼の葛藤、挑戦は評価もできるし、今日では、なかなか見ることができない挑戦であるとした。

 浅田さんも、その部分については、ホー・ツーニェンさんと同意見だと発言。西田幾多郎と鈴木大拙のどちらの思想が深いかと言えば、西田の方だとした上で、西田が整理のつかない深い葛藤を抱えて仕事をしていたのは事実で、それに対して、鈴木大拙は明快ゆえに世界中に禅の思想や仏教思想を広げるのに貢献したが、悪い言い方をすると、薄っぺらな気はすると応じた。

あいちトリエンナーレ2019展示風景 ホー・ツーニェン
《旅館アポリア》 2019年 Photo: Takeshi Hirabayashi

 浅田さんによると、真珠湾攻撃の直前に始まって翌年まで続いた3回の座談とそれをまとめた「世界史的立場と日本」(1942〜43年、「中央公論」連載)は、西田幾多郎や田辺元の弟子だった高坂正顕、高山岩男、鈴木成高、西谷啓治の4人によるもので、その少し後に今度は、文学者も含めて「近代の超克」という「文学界」の大座談会(1942年)があった。京都学派の人たちに加え、日本浪漫派(中心人物は保田與重郎)の亀井勝一郎が参加し、「文学界」のグループからもメンバーが加わった。京都学派では、西田と比べ、弟子の4人は明快、体系的で分かりやすいが、「それがどうしたというのか?」という感じだと説明した。

 浅田さんは、この後、「日本の橋」を書いた日本浪漫派の保田與重郎について、ブリッジは無の場所に向かってかけられ、どこに行くかわからないけど、とにかく渡ろう、ジャンプしよう、つまり空虚に向かって身を投げるということをファナティックに言っているところがあるなどと説明。近代を簡単に超えることができないことが分かっていた小林秀雄、中村光夫らの「文学界」グループ、「世界史的立場と日本」で大東亜共栄圏のための戦争を正当化する議論をしながら、本当に納得して死のうと思った人はいないと思われる西田の弟子たちの4人について、改めて整理。その上で、巨大なファンを回して神風特攻隊の戦闘機みたいな展示もした喜楽亭のいろいろな部屋に、京都学派だけでなく、日本浪漫派や「文学界」グループなど、いろいろな人が召喚されても面白かったんじゃないか、などと述べた。つまり、浅田さんによると 、しっかりしたリサーチが土台にあった上で、何か特定の考えが表出されているのではなく、矛盾する声が共存しながら、空間に風が通り抜けるように響いているところが、この作品の優れたところである。

 こうした議論の延長線で、浅田さんがもう一人、この旅館の部屋にいると面白いとしたのが谷崎潤一郎。3回の座談会の最後となる「総力戦の哲学」が掲載された「中央公論」1943年1月号で、新連載として「細雪」と島崎藤村「東方の門」が始まった。つまり、京都学派の4人が「総力戦の哲学」と言って盛り上がっている横で、大阪の旧家の4姉妹が帯がキュッキュッと鳴るのが嫌だとか延々と日常のディテールを書いていて、このイデオロギー的介入が危険だということは軍部も分かっていた。6月号に自粛的立場から連載中止の「お断り」が出るが、この「旅館アポリア」のどこかの部屋で谷崎が執筆していてもいいのではないかと提案した。

 浅田さんの話を受け、ホー・ツーニェンさんは、谷崎潤一郎は、「旅館アポリア」に招待したいと思った最初のゲストの1人だと応答。実際に、2階の大きな扇風機が回っているところの映像に「陰影礼賛」からの引用があるという。その上で、ホー・ツーニェンさんは、床の間は闇がある所で照明で隅々まで照らすと闇を壊し虚無が失われる。虚無の空間は全てが見通せてはいけないと谷崎は言っているのであって、これは京都学派が絶対的な無を表現しようとしたことへの1つの応答になっているのではないかと話した。

 浅田さんは、既に谷崎のゴーストが「旅館アポリア」に住んでいて内側から京都学派を批判していることが分かったと述べた。
 ホー・ツーニェンさんは、谷崎の「陰影礼賛」は、喜楽亭という空間をどう使うかについても多大な影響を与えたと説明。通常は、高い位置にプロジェクターを設置して、スクリーンに影ができないようにするが、喜楽亭は天井も低いことから、電気コードなどを見せないようにするため、スタッフと相談して、釘は使わず本来の建物と近い部材を使ってしつらえたとし、その意味で谷崎のゴースト的な存在は喜楽亭の建物全体にいると話した。

 ホー・ツーニェンさんによると 、小津安二郎もこの旅館全体にいるゲストである。それぞれの部屋のスクリーンは、床に接するように配置されているが、これは小津映画のカメラの高さにインスピレーションを受けている。小津映画は、畳の部屋の視点に合わせて西洋的な視点よりローアングルになっていて、この作品では、そうした視点が喜楽亭の空間全体に意識された。

 ホー・ツーニェンさんは、谷崎や小津は、存在自体が1つのことでは表せないような曖昧さを伴っていて、容易に何かに回収されることがなく、それが彼らの存在を豊かにしていると強調。そうした存在がアポリアであるからこそ、「旅館アポリア」にとってパーフェクトなゲストなのだという。

 ホー・ツーニェンさんは、この作品は、京都学派、神風特攻隊、あるいは小津安二郎などについての作品ではなく、それらの間を吹き抜ける風のような作品であると改めて述べた。その上で、この作品の制作中、自分自身がこの作品で何が言いたいのか、何がテーマなのかを明言できず不安だったが、作品が完成した時に、これでいいんだと思った、つまり、明らかなポイントやテーマがないことが、この作品のポイントだと考えられるようになったという。

ホー・ツーニェン

 会場から、小津安二郎の映画の顔が消されていたことの理由を聞く質問があった。ホー・ツーニェンさんは、1つ目の理由として、顔を隠すことで登場人物たちが誰にでもなれるし、誰でもなくなる。観客が自分自身を投影できるし、誰を投影するかということ自体が観客に開かれると説明。2つ目には、小津映画の俳優は、日本の観客はよく知っているので、顔がないことで別の形で記憶の想起、小津作品を前にした時とは違う時間も呼び覚まされるのではないかと提案したかったという。なるべく空っぽの入れ物を用意して、見る人に委ねようとした。3つ目は、この方が著作権のクリアがしやすいかなと考えたという。

 最後に、「表現の不自由展・その後」の中止に関わる一連の問題が起きた今回のトリエンナーレについての質問があり、浅田さんは、「これからまだ闘争が続くと思うが、そういう国に我々が生きていることが分かっただけでよくて、知事やディレクター、キュレーター、そして何よりもアーティストたちがそれぞれの立場で忍耐強く、フレキシブルに創意工夫しながら闘い抜いてきて、限定された形だけど再公開に至ったのは1つの勝利として評価していいのではないか」と語り、会場から拍手があった。

 ホー・ツーニェンさんも、「参加アーティストの全員が一度は、真剣に作品を続けるか、取りやめるかを考えたと思う。私としては、作品の中で私が問うている問題、作品そのものが観客に投げかけている問いは、今回起こっている状況とつながりのあるものだと思ったので、生産的な対処として、より多くの人に見てもらうことで、作品と状況が共鳴するようにすることを選んだ」と話し、大きな拍手を受けた。

ホーツーニェン
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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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