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境界のかたち 現代美術 in 大府 2月14日まで

  • 2021年2月4日
  • 2021年9月10日
  • 美術

愛知県大府市のおおぶ文化交流の杜 allobuで2つのアート展

 愛知県が次代の若手芸術家の発掘・育成と現代美術の普及を目的に、大府市と共催し、地域展開を図る現代美術展「境界のかたち 現代美術 in 大府」が、2021年1月23日〜2月14日、大府市おおぶ文化交流の杜 allobu(愛知県大府市柊山町6丁目150-1)で開かれている。

 allobuは、図書館やホール、ギャラリーを併設する複合文化施設。今回は、6人の作品が建物内の各所に展示された。作品点数は少ないものの、充実した展示になっている。

 大府市は、尾張と三河の境界に位置している。展覧会のテーマ「境界のかたち」は、私たちの周囲、あるいは内面に張り巡らされたさまざまな境界をテーマとしている。

 同じ会場、同じ会期で、「鈴木昭男 音のみちくさ『点音』inアローブ」も開催されている。

 鈴木昭男展は、大府市が展開してきたアートプロジェクト「アートオブリスト」の一環。秋に大府市内で予定される本展のプロローグに位置付けられる取り組みである。

境界のかたち 現代美術 in 大府

うしお

うしお

 うしおさんは1978年、山形県出身。山形県を拠点に制作する。コミュニケーションや社会での「思い通りにならない状況」を映像やインスタレーションなど多様な方法で制作する。

 愛知県美術館の2020年度第4期コレクション展(2021年1月15日~4月11日)でも、オセロゲームの対局を映像化した《Where Are You?》などが展示されている。

うしお

 今回の作品は、映像インスタレーション「詠み人知らず『なかきよの‥』」である。

 江戸時代後期の船頭、小栗重吉が江戸から終わりに向かう航路で遭難し、17カ月もの間、太平洋を漂流した。多くの仲間が亡くなる中で、日本へ帰還後の余生を命を落とした乗組員仲間の供養にささげ、台座が舟形になった慰霊碑を建立した。

 映像スクリーンは1つ。空間には竹による構造物が組まれ、床には、漂流する船と乗員をイメージした粘土の置物がいくつも配されている。扇風機がうなりを上げ、映像に重なるナレーションは聞き取りにくい。

うしお

 映像では、水平方向からに撮影した海面や波が打ち寄せる砂浜、粘土のミニチュアの船や乗員、昔の世界地図、古文書、頻発した漂流の記録、当時の航海の状況、鎖国政策などが展開する。

 危険と隣り合わせの当時の航海や世界観、想像を絶する長期の漂流、命を落としていく仲間への哀切な思い、人間性へのイマジネーション・・・。極限状況を通過した人間のあり方、共感が時代を超えて静かにしみわたってくる。

折原智江

 折原智江さんは1991年、埼玉県出身で、埼玉県を拠点に制作する。多摩美術大工芸学科で陶を学んだ後、東京藝術大大学院先端表現科を修了した。

 煎餅工場に生まれた自身の生い立ちから、生前墓を煎餅で作った《ミス煎餅》など、自分のルーツや個人的な体験、身体感覚から素材を選び、ユニークな視点で制作する。

 2019年のgallery N(名古屋)での個展「息を止める事をやめる」(写真上)でも、線香や、自分の涙、呼気などを素材に、生と死、人間の存在を独特の見方で作品化した。

 今回の作品「記憶の化石」は、2020年の1月1日から12月31日までの新聞を積層させるように固めた「彫刻」である。

 まるで堆積岩のように、1年分の情報=記憶が積み重なった作品である。

 新聞とは思えず、岩石と見紛うほど。写真を掲載できないのが残念である(折原さんの作品が設置されたallobuの図書館内は撮影禁止)。重さは、80キロあるという。

 シンプルな発想ながら、コンセプチュアルで、いい作品である。筆者は、河原温の日付絵画の箱に収められる地元の新聞記事を連想した。

 つまり、河原温のこの切り抜きが、「1日」の出来事だとすれば、折原さんによる新聞の化石は、「1年」という時間が固められた。

 会場には、作品制作の様子を撮影した動画も展示され、とても興味深い。

 というのも、その制作自体がパフォーマンスになっていて、儀式めいているからである。

 折原さんは、1枚ずつ新聞紙をめくると、ひととおり目を通すように眺め、順次、のりで貼っていく。この新聞紙の岩石は八角形で、折原さんは貼り終わるとカッターナイフではみ出した部分を切り揃え、最後に、手を合わせて祈る。

 岩石のようになった新聞紙は、神(新聞紙の「紙」と「神」をかけているのだろうか)の宿る御神体のようでもある。

 展示する空間が、情報をアーカイブする図書館ゆえに、新聞という素材を使うのは、とてもよく分かる。

 同時に、筆者のような新聞社社員からすると、情報がデジタル化され、紙の新聞がまさしく「化石」のように読まれなくなっている現代からすると、アイロニーを感じざるを得ない。

 折原さんもまた、新聞という紙のメディアの衰退に関心をもっているのだろうか? 新聞を読まない若い世代にとっても、新聞が近代の情報産業の遺物として、ある種の象徴性をまとっているとしたら・・・、などと考えさせられた。

下道基行

 下道基行さんは1978年、岡山県出身。香川県が拠点である。

 下道さんの作品も、撮影禁止の図書館内に展示されていて、作品画像を掲載することができない。

 武蔵野美術大造形学部油絵科卒業後に東京綜合写真専門学校研究科を中退。

 砲台や戦闘機の格納庫など、日本各地に残る軍事施設跡を4年間かけて調査・撮影した「戦争のかたち」シリーズや、米国、台湾、ロシア、韓国など、日本の植民地時代の遺構として残る鳥居を撮影した「torii」シリーズなどで知られる。

 戦闘機の格納庫を撮影した写真の連作は愛知県美術館に収蔵れ、2020年度第4期コレクション展(2021年1月15日~4月11日)で展示されている。参考に作品画像を掲載する(写真下)。

下道基行

 日常空間に溶け込んだ戦時中の格納庫と同様、下道さんの作品は、忘却されかけている物語、普段は意識化されないものを顕在化させる。

 今回は、大府市、岡崎市、刈谷市などの中学生2年生(14、15歳)を対象に、「身の回りの境界線」を探してもらう特別授業を展開。それぞれの生徒に、発見した境界線についての作文を書いてもらい、地元の新聞に掲載するという流れのプロジェクトをドキュメント風に展示した。

 それらは、地元の中日新聞のほか、プロジェクトの展開に合わせ、沖縄タイムス、山陽新聞、韓国の光州日報にも掲載された。

 大府市では撮影できないため、同じシリーズが展示されている愛知県美術館の作品写真を掲載する(写真下)。 

 「境界線」の捉え方は、空間的なものにとどまらず、制度的、社会的、心理的なものまで幅広い。作品からは、子供から大人に向かい始めた中学生たちの繊細な感性、心の揺らぎ、社会へのまなざしが感じられた。

下道基行

鈴木一太郎

鈴木一太郎

 鈴木一太郎さんは1988年、岐阜県出身。大府市を拠点に制作している。

 愛知県立芸術大大学院修了。「ヴァーチャルと彫刻」をテーマに、デジタル画像を現実空間に立ちあげるような作品を制作する。

 今回は、騎馬像がモチーフとなる。

 騎馬像は、近代国家が始まった西欧で、王、政治家、軍人などをかたどって多く造られ、日本でも明治以降に製作された。

 あいちトリエンナーレ2019で、彫刻家の小田原のどかさんは、豊田市駅西の公園に、かつて存在した北村西望による軍人の騎馬像「寺内元帥騎馬像」(東京・三宅坂)の台座を再現。国家権力によってモチーフが変化する彫刻とは何かをテーマに据えた。

 鈴木さんは、こうした騎馬像の歴史も踏まえ上で、騎馬像の騎乗者を消し、馬だけの彫刻を制作。コンピューター上で画像を構成するピクセルを拡大して表現した。

 1辺12センチのブロックを積み上げ、高さ2・5メートル、幅3・3メートルの騎乗者なき騎馬像が設置された。

 3次元と2次元、リアルとヴァーチャル、現実と虚構など、デジタル時代における視覚イメージと存在を問いかけている。

平川祐樹

平川祐樹

 平川祐樹さんは1983年、愛知県出身。愛知県を拠点としている。名古屋学芸大学大学院メディア造形研究科修士課程修了。

 映像を中心に、メディア考古学ともいえる歴史分析的視点からのリサーチによって、静謐なイメージへと結晶化させる。2019年のSTANDING PINE (名古屋) の個展では、失われた映画を探求する中で発展的に始まった新シリーズ「Years Later」が展示された。

平川祐樹

 作品は、階段を上がった2階スペースに設置された2点の映像インスタレーション。視界をさえぎる表が白、裏がグレーの2つの仮設壁が設置され、それぞれ、その表と裏にモニター画面がある。

 つまり、壁の表裏の2面のモニターがペアになって、1つの作品となり、それが2組ある。壁の表と裏は、同じ対象を互いに反対側(裏側)から撮影した映像になっている。

平川祐樹

 映像では、机の上に本、紙、置き時計、ワイン瓶、グラスなどのオブジェが置かれ、静物画の雰囲気もある。警察署の取調室のような空間にも見える。

 人間の身体の一部が彫刻のような形態で登場することから、映画のある場面(セットといったほうかいいかもしれない)を再現していることがわかる。

 映像は、ほとんど変化しないが、テーブルの上の紙が揺らめくなど、わずかな動きとともにカメラがゆっくりパンし、いずれも12分間でループしている。

平川祐樹

 つまり、出演した俳優の手の一部を彫刻のような造形物で代替した上で、映画のあるシークエンスを構成する。

 サイレント作品をはじめ、1940年代ごろまで使われていた映画用フィルム(ナイトレート・フィルム)はセルロイド(セルロース)を使っていて、非常に燃えやすいことから、現存しないものが多い。

 平川さんは、今回、1920、30年代の失われた映画の写真資料やブロマイドを参考に再現したセットを映像化し、時間の流れを静かに定着させた。

 ある映画のかすかな記憶の欠片から創作した静物画のような映像は、静かな息遣いとともに、見る人の内なる記憶と響き合い、物語誕生のきざしのような揺らぎ、気配を感じさせる。

松川朋奈

松川朋奈

 松川朋奈さんは1987年、愛知県出身。東京都と京都府を拠点に活動している。

 作家自身の経験や、同世代の女性へのインタビューを基に、身体の一部や衣服などを超絶技巧で描き、傷や妊娠線などの痕跡など極私的なディテールから、女性の不安や悲しみ、強さや弱さなど内面深くへとまなざしを導く。

松川朋奈

 今回、会場に掲げられた説明によると、松川さんは自他未分の状態で生きてきた自分と母をそれぞれ一人の人間、他者と認め、自分自身に由って生きることで新たな関係を築きつつある。

 展示された絵画は、そんな娘たちと母たちとの関係が主題になっている。

松川朋奈

 「自分で選べるということに、今も戸惑うけれど」という作品では、脱ぎ捨てられたピンク色の服から、子供のころ、女の子にふさわしいとして母親から着る服を決められた女性の幼少時の記憶、母との関係の変化と揺らぎ、距離感が浮かび上がる。 

 花柄模様のワンピースの上で、娘と母が手を重ね合わせる「子供の頃は、母が持つ女性としての側面をどうしても受け入れることができなかった」では、母と娘、親と子供の関係が変化し、母や妻という役割でなく、1人の人間としての関係が開かれていく成長と温かみがにじむ。それは、母を見つめる、そして自分自身を見つめるということでもある。

松川朋奈

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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