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林裕己写真展「表現と家族」


この展覧会レビューは、織部亭(愛知県一宮市島崎)で、2010年10月16日〜11月14日に開かれた時のものである。
 写真家でパフォーマーでもある林裕己が美術を中心に、接点のある作家や現場に関わる知己の家族を撮影してきた写真。撮影は二〇〇四年に始まった。もともとは月刊雑誌「中部経済界」に連載され、家族の肖像写真に、作家の人生哲学、家族の歴史・エピソードや撮影の様子などを取材したエッセイを加えて発表した。今も連載は続く。会場の展示では、写真三十五点を掲示し、エッセイはファイリングして読めるようにした。
 例えば、林の恩師の画家、森真吾の写真では、森と車いすの妻が寄り添い合う。撮影後に亡くなった認知症の妻と森との関わりが書かれたエッセイ「永遠の家族の棲むところ、絵画の生まれる故郷へ」では、夫婦の生き方と林の観察眼に引き込まれる。大野一雄や野々村宇旦、西島一洋、水野シゲユキ、吉本作次、杉山健司、加藤マンヤら、その他の作家たちの写真、エッセイも感慨を抱かせる。作家のほかにも、愛知県一宮市で現代美術を広げ、併せて悪性リンパ腫と闘ってきた織部亭の大島誠二、美術家に和紙を提供している美濃和紙職人の保木成敏らが登場する。

林裕己

 写真を見て、エッセイを一つ一つ読んでいくと、それぞれが人生と芸術に真正面から向き合ってきた事実が深く響いてくる。写真はもとより、家族の葛藤や闇、あるいは愛情を飾らず書きつづったエッセイもよく練られている。なるほど、「アート」の世界でも家族や人間関係、芸術と人間のありようは盛んに取り上げられてきたが、それは通常、物象化され、商品化されてきた。その意味で、物象化・商品化を回避している林の巧まざる作品はいわゆる「アート」ではないのかもしれない。
 家族は自分自身と密着した存在であり、そうでなくとも、人生における最小の共同体なのだが、同時に人は全く別物の個として生きている。多くの場合、生活に直結する家族は、平凡な人生へと作家を導く強烈な引力だ。林裕己がこうした写真やエッセイを発表できるのは、林自身も葛藤を生きてきたからだ。この作品自体、林の家族が別の家族を訪ねて撮影するというコンセプトで成り立っていて、林は原則、撮影の場に妻と現在小学校六年の娘を帯同している。家族と作家(表現)は両立できるのか。生きるとは? 家族との生活をどう守るのか? 仕事とは何か? 葛藤を引き受けて生きる林自身が、取材対象の作家や家族から素直に感得するものが実に深い。
 芸術と人生(家族)のどちらを選ぶか。思い出したのは、トーマス・マン「トーニオ・クレーガー」。トーニオもまた、芸術と人生の間で揺れる。「真の創造者でいるためには、死んだも同然でなければならない」。高踏的に生きてきたトーニオは、その一方で「この上なく幸せで平凡な人生を生きて、愛し、神を称えることができたら」と家族との普通の生活に憧れる。
トーニオは最後のクライマックスで、悔恨と郷愁にむせび泣く。芸術と人生の間に立ち、葛藤する「普通の人」として、もっといいものをつくりたい、でも自分が一番深く愛するのは、「平凡な人たち」なのだと告白する。この小説の最後は泣ける。そして私はトーニオに重なる、林の写真の作家たちにも同じように惹かれるのだ。
 本稿は芸術批評誌「REAR」(2011年26号)に掲載されたものに加筆修正したものです。

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