山田七菜子「気泡」ギャラリー ハム(名古屋)で2022年11月12日-12月24日

Gallery HAM(名古屋) 2022年11月12日〜12月24日

山田七菜子

 山田七菜子さんは1978年、京都府生まれ。大阪で制作する画家である。VOCA展で奨励賞を受賞。東京オペラシティアートギャラリーの若手作家育成展覧会シリーズ「project N」にも出品した。

 ギャラリーハムで、精力的に作品を発表している。2020年の個展2021年の個展のレビューも参照。

 力強く不穏な色彩の充溢、混沌と秩序の間で溶け合い揺らぐ形象、世界の神秘に肉薄するような絵画空間など作品の特長はそのままだが、今回の個展ではサイズを小さく抑えている。

 小石や、板切れに描いた作品、ドローイング帳も展示した。

山田七菜子

 山田さんの絵画は、大地や湖沼、海、空、植物、人物などをモチーフとしながら、それらが独立した明確なイメージを結ぶことはない。

 絵画空間の構築・破壊を反復させる中で、大胆な色彩と線、ストロークが交差し、イメージが別のイメージへと変容する中で生成される作品である。その原初的、野性的で、謎めいた空間には、生の痕跡や記憶、傷のイメージがしのびこんでいる。

 時として、山田さんの言葉から聞かれる、大地に埋もれる「石」、あるいは大気に漂う「おばけ」は、世界の中に自分が存在することの無垢なる痛みとして、絵画空間の中に隠れたものを暗示している。

山田七菜子

 環流するような画面では、地と図の関係が解消され、人や風景、植物をはじめとした自然がつながって奔流となり、その中に、傷ついたイメージ、異質なもの、無垢なるものが隠れている。

 そこに意識的な計らいはない。描き、壊す反復の中で記憶と身体から掘り起こされる、あるいは予測せずに来訪する逸脱したもの、言いしれぬものである。

 世界を分節すること、無垢な魂が「世界」に入ることの怖れ、痛み、傷ーー。山々や大地、荒野、水辺などの風景がカオスとなった妖しい自然は、人間の魂を隠し持ってくれるが、それで調和が訪れるわけではない。

山田七菜子

 山田さんにとって、描くことは生きることの葛藤でもある。画面にひりひりするような不穏な気配、不安な感情があるのはそのためである。

 外界を見つめることで、自分の内界をも見つめる。混沌とし、分断され、怖れに満ちた世界で傷つき、不安とともに生きながら、倒れ、立ち上がっては、ゆっくり歩む。

 弱さ、苦しみ、存在の哀切さ、罪に気づき、自分を低くし、世界と自分を見つめるからこそ、混沌の中にも慈しみと安らぎの感覚があるのである。

 それは奥深いところにある魂と言っていいものかもしれない。その魂のような感覚が見る人と共振する。

山田七菜子

気泡

 山田さんは今回、イメージと絵画の関係、描く行為そのものを展示空間から感じられるように全体を構成している。

 小さなキャンバス、板切れ、小石に描き、スケッチ帳をインスタレーション的に展示したのも、そうした思いがあるからだろう。

 イメージの断片と絵画の間にある垣根を低くし、連続性を持たせている。山田さんは、絵画はその中にイメージをかくまうことができる、という言い方をよくする。

 つまり、絵画の表面にあるモチーフではなく、その中に秘された形象がある。それこそが、この世界に埋もれた無垢な魂の怖れ、傷ついた生の痕跡や記憶であり、「石」や「おばけ」は、それを媒介するメタファーである。

山田七菜子

 無垢で弱い存在は、強く自分を主張しない。だから、絵画の中に逃げ込ませているのである。

 それは、山田さん自身も普段は見つけられずにいたイメージ。描くことで、それを見つけながらも、モチーフとして絵画の表面にさらすのではなく、逃がしてあげる(匿ってあげる)。

 イメージを表現することと、逃がしてあげることの矛盾、葛藤が、山田さんの絵画を成り立たせているのだ。描くことは、喜びであると同時に、表現することに伴う罪深さ、世界を分節し、ジャッジし、順位づけすることのエゴを自覚する苦しみでもある。

山田七菜子

 今回は、火山や草木、花、海、人物、魚、カメなどが描かれているが、当然ながら、そこには、描かれないものへの問いかけがある。鑑賞者に、人間が意味づけた風景や人物らしきもの生き物が見えたとしても、山田さんは、それ自体の意味を前提に描いているわけではない。

 むしろ、名状し難い存在することの痛み、傷を抱えながら表現すること、描くことの罪深さを受け入れてくれるものとしての絵画が、山田さんにとっての絵画である。それは、風景や人物という具体的なモチーフを抽象化した絵画ではない。

 今回の展示では、1点1点が独立した作品である一方、山田さん自身にとっての描くことがテーマ化されている。

山田七菜子

 三重・七里御浜海岸で拾った小石に描いたドローイングがある。山田さんは最近、棺のようなイメージで、小石を10センチ四方の木箱に詰めた作品を作っている。

 そこには弔いの思いがあるらしい。分節された世界の中で痛々しく存在することの傷を慈しみ、いたわる思いである。  

 今回の個展タイトルの「気泡」とは、固体または液体の中に包まれた小さな気体のことである。つまり、ここでいう傷の痕跡のメタファーである。

 絵画の中を深く覗き込まないと見えないもの。見えたように感じても、意味や概念に飼い慣らされ、見る人のエゴに手なづけられたものでないもの。

山田七菜子

 イメージのゆらめきの中で、あるとき、可視化されるイメージの気泡。だが、それもまたファントムかもしれない。イメージの亡霊、そして、エゴによる愚かさによって現れ出たもの、あるいは見間違い……。

 描くこと、鑑賞すること、理解したと思ってしまうこと、高ぶり、生きること、そのすべてが罪深い。ドローイング帳は、それを自覚する生々しさを映している。

 山田さんは、考えて描くことをしない。ルールを決めない。音楽を聴きながら、考える前に動き、感じ、絵具という物質、色彩、うつろいゆく感覚に共振する。

 絵画は、画家が1つ1つの筆触によって絵具という物質を重ね、なんらかのイメージをしつらえることで成立するが、イメージとは何であるのか。

山田七菜子

 イメージは、山田さんにとって、明確に分節された世界ではない。極めて危ういものであって、作品が傷ついたイメージを秘することによって、絵画は「絵画」になるのだ。

 だから、一見、大胆でエネルギッシュな山田さんの作品は、慎ましいものである。表現すること、固定化されたイメージの罪深さに意識的な山田さんの絵画は、アドルノの「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という文化批判の言葉を想起させる。

 精神活動こそが文化なのである。山田さんの作品は、商品化され、効率化され、揺らぎを欠いた明確な絵画の対極にある。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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