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山田七菜子 ギャラリー ハム(名古屋)で7月31日まで

Gallery HAM(名古屋) 2021年6月19日〜7月31日

山田七菜子/Nanako Yamada

山田七菜子

 山田七菜子さんは1978年、京都府生まれ。大阪を拠点に制作している画家である。

 VOCA展で奨励賞を受賞。東京オペラシティアートギャラリーの若手作家育成展覧会シリーズ「project N」にも出品した。

 2020年の同じ画廊での個展「夢題の無」レビューも参照してほしい。今回は、展覧会初日に伺えず、後日、メールで山田さんにインタビューして書いている。 

山田七菜子

おばけの絵は絵、絵のおばけは絵

 山田さんの個展をそれほど多く見ているわけではないが、今回の個展は一段と充実したものになっていたように思う。

 大きな作品が2点ほどあって、それらは、独特の色彩感覚、伸びやかなストロークによる混沌とした画面の中にイメージの現れがある。

山田七菜子

 それ以外の小さなサイズの作品も、充溢するような力を感じさせる。

 無秩序にもなりかねない連続した筆の動きが必然と神秘をはらむような絵画空間になっている。作家の中で、それを探求する粘り、引き受ける状態が生まれている。

 個展のタイトルにある「おばけ」は、山田さんの作品にとってとても重要な概念である。

山田七菜子

 山田さんの絵画は、風景、すなわち大地や湖沼、海、空、自然、植物などに見える画面を構築、破壊する反復の中で、自分自身と向き合いながら、名指しがたい生の痕跡や記憶、傷のイメージと出合うことで生まれてくる。

 2017年ごろから、意識して、画面の中に秘匿されたような不可解なイメージ、傷のような感覚、無垢な存在が、大地に埋もれる「石」に喩えられたが、やがて、それが「おばけ」のイメージになってくる。

山田七菜子

 幻視的であるとは言えるかもしれないが、「おばけ」を描いた幽霊画ではない。

 むしろ、不可解な「おばけ」を絵画が秘匿する、内包する感覚をもてるようになることが、山田さんにとっての描くことである。

 そこでは地に対する形象が完結せず、むしろ地と図の関係が解消される。あるいは、人やおばけらしい形象と大地や山などの風景、自然、植物とがつながって循環しているように見える。

山田七菜子

 傷ついたイメージ、異質なもの、無垢なるものは、山や海、植物、大地、荒野、人間、動物、植物など、普遍的、根源的なものの中に隠れている。

 とはいえ、それは意識的に忍び込ませてあるというよりは、壊しては築く絵画のプロセスの中で掘り起こされる、あるいは不意に現れる。

 山田さんにとっては、描くというより描かせられるような行為の中で起こる、言い知れぬもの、逸脱した異質なものの現れ、あるいは、それを含む絵画そのものが「おばけ」である。

山田七菜子

 モチーフである山々、大地や荒野、水辺などの風景からは、畏怖すべき自然、アニミズム的でどこか怪奇的な妖しい雰囲気がにじみ出ている。

 そうした不意に訪れる出合い、出来事、立ち現れるイメージは、なんらかの因果によってそこにあるのではなく、誰かのために存在しているわけでもない。

山田七菜子

 つまり、その絵画空間は、それぞれの形象が互いに見返りによって成り立っている、意味につながれた世界ではない。

 大きな作品は、伸びやかなストロークの下層に顔のようなイメージ、あるいは、顔の輪郭らしきものが見える。

 これらは、一度、「完成」させた旧作の上に描き直している。山田さんは、こうしたことをよくする。

山田七菜子

 「けむり」と題されたメインの作品(写真上)は、タバコを吸う大きな人の顔の形があって、さらに左上にタバコを吸う小さな人の形、右上に笑顔、右端には船に乗り松明で火を運んでくる人の形象がある。

 それらが、空と遠景の山脈を後景にした、入り組んだ海か湖の入江をもつ地形の風景との関係で、浮かび、あるいは沈み込むように描かれている。

 元の絵のイメージや色合い、ストロークが残り、画面全体が複雑になる中で、破壊と構築によるレイヤーの重ねりの過程そのもの、そのせめぎあいに豊かさがある。

山田七菜子

 縦の画面である「浜辺(白い花)」(写真上)は、空と遠景の山脈を背景に、前面に人の横顔の形象があり、その横顔の中には入江のような水辺の風景が重なっている。

 先に風景が描かれ、遠景の山は元の絵の部分を残しつつ、横顔の中では、黄土色の部分は大地、青の部分は水を表し、髪は遠景の山、近景の植物とも重なっている。

山田七菜子

 自然というのは、この作家にとって欠かすことのできないインスピレーションの泉なのかもしれない。

 山田さんの絵画は、複数の時間性、空間性を帯びながら、構築と破壊を繰り返しているので、すべてが境界領域のようになっていて、野性的であるとともに幻想的である。

 小さいサイズの作品では、デフォルメされた人の怪しい存在のイメージが比較的はっきりと確認できるものがある一方、多くは、自然と人のイメージが混沌と混ざり合っている。

山田七菜子

 たとえ、サイズが小さくても、イメージが錯綜、連鎖しながら、筆の動きや色彩に自律性があって、色彩と線、形そのものとイメージが緊張関係を保ちながら豊かな均衡を見せている。

 山田さんの絵画では、大胆な色彩と線、面、ストロークによるプリミティブで野性的、豊潤な空間が、常に謎めいた感覚を伴って、私たちの眼前に現れる。

 大地や自然、人のイメージが複数の時間、空間のレイヤーの中で重なりながら、地と図、イメージとイメージの循環、交差が起こる中で、傷や記憶、異質なもの、不可解なものが呼び覚まされるように現れ、また沈み込んでいくのである。

山田七菜子

 それは謎めき、まさしく「おばけ」にも似た異質なものの感覚を体験させてくれる。

 同時に、山田さんにとって、描くことは生きることと同義であって、葛藤でもある。

 だから、画面には、自ずとひりひりするような不穏な気配、不安な感情が表出されているようにも見える。

山田七菜子

 風景、大地や地勢、自然、空、すなわち、外界を観察することは自分の内界を見つめること、異質なもの、不可解な存在、傷、不安、記憶と出合うことでもある。

 混沌とし、分断され、怖れに満ちた世界で傷つき、不安とともに生きること、そして、それに折り合いをつけようと描くことは、焦燥の中にあって、異質なもの、不可解なもの、傷ついた無垢なイメージと和解し、慈しみによって、弱さを乗り越える力、静穏と希望に触れることでもある。

 山田さんが好きな画家の1人はではルオーである。

山田七菜子

 山や海、植物、大地、荒野、人間、動物などを、自分と向き合うように描く山田さんの筆触やイメージもまた強く、色彩の表現性はとても豊かである。

 異質なもの、不可解なもの、無垢なるもの、傷ついた内面世界をたたえた絵画空間の中に、救いのような恵みを見る。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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