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田中良和 ノコリモノ ライツギャラリー(名古屋)で2023年6月23、24、30日、7月1、8、9日

Lights Gallery(名古屋) 2023年6月23、24、30日、7月1、8、9日 

田中良和

 田中良和さんは1983年、大阪府生まれ。2006年、愛知県立芸術大学陶磁専攻卒業。2009年から2016年まで、愛知県瀬戸市の同市新世紀工芸館で陶芸を担当した。

 2013年、第1回瀬戸・藤四郎トリエンナーレでグランプリを受賞。愛知県江南市のギャラリー数奇や、岐阜県美濃加茂市のGALLERY crossingで個展を開いている。

 2022年、愛知県瀬戸市の愛知県陶磁美術館で開催された特別展「ホモ・ファーベルの断片 ―人とものづくりの未来―」に出品している。

 田中さんは陶芸作家であるが、器やオブジェを制作するという次元を超え、ファインアートに近い思考をもっている。

田中良和

 今回もそうしたクリエイションの力が発揮されている。展示空間が、陶芸専門のギャラリーでなく、名古屋・円頓寺商店街の古い民家をリノベしたLights Galleryでの初個展ということもあって、作家本人も意欲的だったことが伺える。メインは、1階、2階にそれぞれ展開したインスタレーションである。

 もっとも、だからと言って、土から離れるということではない。土を使いながら、単なる器、オブジェ、造形性を超えた深度を持った作品を目指している。 

ノコリモノ

 個展タイトルの「ノコリモノ」(残り物)が、田中さんの作品を見事に言い当てている。 

 一階では、長大な台の上に、白い削り屑のようなものが大量に積まれている。実は、これは磁土を陶芸用のカンナで削った削りかすを焼いたものである。

田中良和


 材木をカンナで削ったものが「かんなくず」だが、素材を土に変えて削った陶芸版の屑といえば、分かりやすいだろうか。

 とても美しく、そして見たことのない光景である。それぞれの欠片がとても小さく薄く、儚い。それでいて、それぞれに固有の形をもち、柔らかな曲面によって、その繊細な空間で空気を包んでいる。

 田中さんは、電動ろくろを回して、直径20-30センチほどの器物を作り、その内側を陶芸用のカンナで削って、削り屑を内側に落とすようにして、これらを大量に作っている。

 その後、大量の削り屑をサヤに入れて焼くのだが、焼成後は、くっつくので、崩れないようにそれを丁寧に剝がすのだという。途方もなく手間のかかる作業によってつくられた世界である。

田中良和

 田中さんによると、陶土でなく、磁土のほうが、繊細な仕上がりとなる。薄く剥がされた土は、くるくると巻いたような形状になって、ふわふわとし、透過性もある。

 なぜ、こうした作品を作るに至ったのか。田中さんは、器を制作する中で、器本体よりも、その周りに広がる削りかすの景色を美しく感じたのだという。

 これらの削り屑は、そのままなら、ゴミになるものである。制作とは何か。リサイクルとは何を意味するのか。芸術に特権性はあるのか。そんな思いもよぎったのかもしれない。

 とりわけ、磁器の制作では、膨大な削りかすが出るという。リサイクルの発想といえば、そうだが、この作家の姿勢には、もう少し深いものを感じる。

田中良和

 筆者が、1996年、彫刻家の若林奮さん(1936-2003年)にインタビューをしたとき、田中さんと同じような話をしていたことを、ふと思い出した。

 若林さんは、ジャコメッティのアトリエの写真を見たときに、制作途中の彫刻の傍らに積まれた石膏の削りクズの方が光彩を放って見えたと言っていたのである。

 この頃、若林さんは、ゴミ処分場建設を巡って、反対派市民と行政との対立が深刻になっていた東京都西多摩郡日の出町の森林のトラスト運動の土地に、「緑の森の一角獣座」(詩人・吉増剛造さんのネーミング)という小さな庭を制作していた。

 地球上の物質、質量が一定とすると、結局、製造、制作、消費というのも、元素が姿、形を変えて移動しているだけである。ゴミの問題もまた物質の問題である。

 そして、それは「美術作品」でも同じである。ゴミとは何か、価値とは何か。そんな話を若林さんはしていた。

田中良和

 今回、田中さんは、削りかすをパウダー状にし、釉薬と混ぜて造形化したオブジェも展示している。表面には、過去の作品を砕いた陶片を埋め込んでいる。

 これらは、「ホモ・ファーベルの断片」展に展示された大型作品と同じ系列の作品である。

 2階に展示したのは、使用済みの蛍光管を使ったインスタレーションである。

 空間に何本もの蛍光管が整列するように吊り下げられていて、その表面は土で覆われている。1つだけ、床に横たえられた蛍光管が白い光を放っている。

田中良和

 蛍光管は家電製品同様、人間に便利に使われた後、使えなくなれば、厄介払いである。捨てるのにもお金がかかり、人間に迷惑がられる。田中さんによると、この作品は、そんな蛍光管を供養しているイメージである。

 確かに、蛍光管を包み込む生土がとても優しい。光を発して人間の居住空間を明るくし続け、最後は見向きもされず、厄介者となった蛍光管を慰撫するような、そんな微かな温かさが感じられる。

 この土に包まれた蛍光管が、墓標にも人間にも見えてくるのである。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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