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鷲見麿「新・聖なるファティア『神秘の子羊の礼拝』」名古屋市美術館で11月14日まで特別出品

 三重県四日市市在住の元画家、鷲見麿さんが2020年8月、京都・KUNST ARTSでの個展で公開した最後の大作、「新・聖なるファティア『神秘の子羊の礼拝』」(2013-2020年)が2021年7月10日〜11月14日、名古屋市美術館の名品コレクション展に特別出品されている。

鷲見麿

 同作品は、民間のコレクターから名古屋市美術館に寄贈の申し出があり、同館が収蔵を検討している。

 鷲見麿さんについては、「画家・鷲見麿さんについて」「鷲見麿個展 新・聖なるファティア 京都・KUNST ARTS」も参照。

 ここでは、京都・ KUNST ARTS で個展が開催された際、筆者が芸術批評誌REAR46号(2021年3月30日発行)に書いたレビュー記事を再掲載させていただく( REAR制作室確認済み、一部加筆修正)。

鷲見麿

 以下、本文。

「鷲見麿個展 新・聖なるファティア」 京都・KUNST ARTS 2020年8月21~30日

 岐阜県出身、三重県四日市市在住の画家、鷲見麿さんによる約10年ぶりの個展である。かつては、名古屋の画廊「白土舎」で個展を開いていた。

 今回、出品されたメインの作品は、鷲見さんが「自分の描く最後の絵」と位置づけた「新・聖なるファティア『神秘の子羊の礼拝』」である。初期フランドル派、ファン・エイク兄弟の多翼祭壇画「ヘントの祭壇画」の内装下段中央パネルの「神秘の子羊の礼拝」の右部分がモチーフになっている。ベルギー・ヘントの聖バーフ大聖堂が所蔵する初期フランドル派を代表する大規模な作品の一部である。
  鷲見さんは、これを超絶的な技巧で「写す」。それだけでなく、さまざまな趣向を凝らした奇想の作品でもある。縦が約185.0センチ、横288.0センチの大作。レリーフ的な突起部分を含め、厚みが36.0センチもある。
 個展に並んだ「新・聖なるファティア」シリーズの別の作品では、この「ヘントの祭壇画」の別の部分や、ヤン・ファン・エイク「アルノルフィーニ夫婦像」「教会の聖母子」がモチーフになっている。
 「新・聖なるファティア『神秘の子羊の礼拝』」は、鷲見さんの過去の作品の中でも最大である。全体の左が矩形の絵画になっていて、右は上方に伸び上がるような歪なモザイクになっている。

鷲見麿

 矩形のパネルでは、右は「神秘の子羊の礼拝」の右部分を細密に写しつつ、左は草花が生い茂る全く異なる風景が、右側に侵食するように粗いタッチで描かれている。パネルの右は、カラフルな色ガラスが散りばめられた半立体的な翼が付くような態様のモザイクである。
 「神秘の子羊の礼拝」は、クラック、変色を含め、驚異的に写してある。その一方、「これは写真ではない」と主張するように、画面の一部には、ピンクと黄の矩形の色面(付箋、あるいはカラーチャートのようである)が介入する。

 つまり、名画の写し、鷲見さんが運営した三重県四日市市の「フリースペースめだかの学校」の協働者「リツコさん」が描いた草花の繁茂の部分、カラーチャートのような色面、モザイクなどで構成されている。また、鷲見さんが偏愛するドイツ人女性「ファティア」の肖像が作品のどこかに描かれている。

鷲見麿

 鷲見さんの制作の特徴は、大きく2つ。

 1つは、元となる名画をグリッドに分解して写すこと。超絶的な技巧で徹底的に写す。模写ではなく、「写す」と鷲見さんは言う。

 もう1つは、福祉的、社会的活動である。鷲見さんは若い頃から、主夫として育児、家事をし、やがて保育や教育など社会のことを放っておけなくなり、「フリースクールめだかの学校」という居場所の開設・運営に関わるようになった。あるときから、このことが制作と密接に関わるようになる。

 写しの背景にあるのは、「世界は模様である」という世界観。世界をグリッドに分解して写すとき、名画や美人は、描くべき美しいモチーフである。世界が画像データのピクセルという不連続な単位に還元可能になったデジタル時代と符合するものだと擬装しながら、逆説的に徹頭徹尾、目と手を使って「連続した世界」として描き写すという超アナログの方法を取ることで、デジタル時代を敵中突破しているのである。

鷲見麿

 つまり、鷲見さんは、名画を膨大な時間をかけて描き写すことで、近代合理主義の果てに方向感覚、秩序と確かな価値を失った現代の虚無主義を乗り超え、世界そのものを愛し、感受性を取り戻せと言っているようである。鷲見さんが名画や「ファティア」「青紀」といった美人を描くとともに、自分の肖像などを等価に絵画に忍ばせるなど遊び心を忘れないのは、こうした思いがあるからではないかと思う。

 鷲見さんは福祉的、社会的なこと、中でも、障害者や、不登校、引きこもり経験者などに目を向け、日常的に彼らのために活動した。鷲見さんにとっては、よくあるように、「日常」がアートのネタなのではなく、格差、差別や抑圧などの中で懸命に生きている人たちの「生き方」そのものがアートと等価な価値なのである。こうしたさまざまな要素を作品に包摂するようになっていき、鷲見さんの作品は、解体と新たな統合が同時進行し、今に至った。
 巷では、「アートは特別のものではなく、日常の中にある」と言いながら、多くの美術作品は、日常をダシに使っている場合も少なくない。鷲見さんは違う。だから、生きることと関係のない戦略や起業のような金まみれのアートを嫌うのである。

 この個展に合わせて出版したカタログの中で、鷲見さんが、トラック業界の闇カルテル問題を告発し、トナミ運輸で定年まで差別、人権侵害を受けながら自分を見失わず働き続けた串岡弘昭さんの生き方、尊厳に「アート」性を感じたと書いているのには、とても共感できる。

 串岡さんに注目するところに、世界と人間存在に対する鷲見さんの愛を感じる。生きること、芸術という見えない価値の素晴らしさと、見える人間関係と社会、制度の不毛さ。鷲見さんは、本質を見抜いている。これだけの作品を制作してきた人だけに、それは残酷で悲しいことでもある。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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