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篠原猛史展 なうふ現代(岐阜)

なうふ現代(岐阜市) 2020年10月10日〜11月8日

篠原猛史展 なうふ現代(岐阜)

 篠原猛史さんは京都市出身。1970年代末から世界各地で個展、グループ展に参加し、東海地方でも、なうふ現代以外に、ボックスギャラリー 、ギャラリーアパ、フィールアートゼロギャラリー(現・ギャラリーナオマサキ)、愛知青少年公園・愛知県児童総合センターなどで、個展その他の活動を展開した。

篠原猛史展

 筆者としては、2006年の「篠原猛史ービオトープの場」展(岐阜・美濃加茂市民ミュージアム)、2007年の「サイクル・リサイクル」展(愛知県美術館)などが強く記憶に残っている。

 多様な内容を含む作品展開ではあるが、現在、篠原さんの問題意識として強くあるのは、イメージの生成についてである。

 イメージとは何か。イメージを形成するものは何か。それは、単に目の前にある絵画や立体など作品の形、色彩をなぞるものではない。

篠原猛史展

 イメージは、造形的、形式的言語をきっかけにしながらも、見る人の中の深い記憶、さらには想像力によって呼び覚まされる。

 そこには、視覚をはじめとした感覚を基にした知覚を媒介に、作品と内面とを行き来する波動の循環がある。そんな問題意識である。

 イメージは、それぞれの個人に不意に訪れるものではない。その人の生きてきた経験、体験、その人の生きてきた過去に影響される。

 篠原さんは、自身の現在意識、今のポジションと過去の記憶を反復しながら行き来すること、過去への遡及、その記憶が現在と循環することで、イメージがつくられ、現在、そして未来が創造されると考える。

篠原猛史展

 過去への遡及が深くなればなるほど、その人の記憶の豊穣さとともにイメージも豊かに、多様になる。

 なので、篠原さんの作品は、見る人の記憶をまさぐり、既存のコードを撹乱し、何気ない日常から非日常へと連れていくものでなければならない。

篠原猛史展

 作品との距離感、立ち位置を変えることで、見る人の記憶のチャネルを切り替える。作品が、見る側に波動を送り、見る側がそれを受けて、再び作品を見るというインタラクションによって、イメージを開くのである。

 見る者が、深く、遠い記憶とのサーキュレーション、作品とのサーキュレーションによって、イメージを多層的に開くのである。

篠原猛史

 だからだろう、篠原さんの作品は、1つの装置である。

 シンプルな中に、1つの視点でなく、さまざまな方向からの視点、距離感で見ることを促す。既存の見慣れた物、見慣れない物が混在し、イメージの倒置、重なり合い、ゆがみ、ずれ、パースペクティブの操作、空間の錯綜によって、見る者を撹乱する。

 見る者を、深い記憶、過去への遡及、多層的なまなざしへと導く装置たらんとするのである。

 それによって、まなざしの向こうにあるもう1つのまなざし、暗闇の向こうにある、より深い過去への遡及、内面とのサーキュレーションによって、自己を掘り下げる時間を与える。

 そこから、見ることの意味、他者性も意識されるだろう。

篠原猛史展

 ある壁掛けの立体作品では、グラスに入れた水が組み込まれる。作品を見る位置を変えて視点が移ろうことで、裸眼で見たときの形象が揺らぎ、ゆがむ。

 見る人の視点が変わることで、形象が揺らぎ、その人のまなざしが作品との間を行き来する中で、見る人の記憶の奥深くの知られざる場所との循環を生み出し、沈潜していたものを呼び覚ます。

篠原猛史展

 スウェーデン製のマッチ箱を形象はそのままに、無垢の木材で数百倍に巨大化させて再現した作品があった。

 当然、このマッチは使えない。マッチの箱も開かない。形象が忠実に再現されているだけに違和感がある。「既製品」なのに精巧な手作業があるからだ。

 大きさを変えるだけで、見慣れた物が全く異なるものに変貌する。日常の中の決まり事、プロトコルを崩壊させ、概念や意味に支配されている私たちに、日常の中の非日常、見ることの不思議さを喚起する。

 箱に描かれたのは、ツバメや、硬貨の形象でしかない。台に置かれたのは、先端が丸みをおびた赤い角材である。

 さらに、レディ・メイドの概念を逆の場所から照射するだろう。 大量生産品としての 機能や意味を失い、美術という制度に依存して美術作品として成立するオブジェに、描く、彫るという手仕事、芸術性を取り戻し、切断された「見ること」、イメージと記憶の往還を再生する。

篠原猛史展

 スウェーデンのマッチ箱の表面に描かれた左向きの国王の顔を正面向きに描き直して反復させた作品もユニークだ。

 パネルの変形、パースペクティブの操作によって、落ち着かない感覚に誘い込む作品である。2つの国王の顔を隠すように、白地にランダムなストロークが走る色面が覆い、その向こうを窺い知ることはできない。

 正確に描かれたにもかかわらず一部が隠れた左向きの国王の顔、ほとんど見えない正面向きの顔、ゆがんだパースペクティブとイメージを覆う抽象的なイメージ。感覚が宙づりにされてしまう。

篠原猛史

 人形の目などを描く極細の面相筆を使って、 油絵具で細かな線の重なるカオスを描いたオールオーバーな作品がある。

 一見、ポロックのドリッピング絵画のように見えるが、篠原さんは、油絵具を薄めることなく、チューブから出したままの粘着性のある状態で、画面を立て掛けて描いていく。

 床置きの支持体に絵具を飛散させるポロックとは、むしろ異質である。絵具を盛り上げて細く描いているため、膨大な時間をかけていることが分かる。細い絵具の線、物質感によって、うごめくような律動感がある。

篠原猛史

 近づくと、おびただしい線が重なり、連鎖し、絡み合い、物質感が地に対して精妙にコントロールされていることが分かる。

 少し離れてみると、今度は、微妙なニュアンスのフラットな平面が広がる。とても、美しく静穏な世界である。

 線から面へ、面から線へ、物質からイリュージョンへ、イリュージョンから物質へ、動感から静止へ、静止から動感へ・・・。まなざしが移動するとともにフェーズが変化する。

篠原猛史展

 2つの同じサイズの画面で、一方は白い地に描き始め、他方は黒い地に描き始める。彩度、明度を逆方向から近づけていくように描いた2枚組みである。

 左の白い地から描いた作品は、白色が最終段階で荒々しく塗られ、他方、左の黒い地に描かれた作品は、微細な線や飛沫が乱舞するように繊細な空間をつくり、両者が均衡している。

篠原猛史展

 見慣れた日常を撹乱する篠原さんの作品では、ありふれたイメージがよく登場する。

 近くで見ると、青い地を背景としたクローバー、ウサギが強く浮かび上がり、細い筆触の線はほとんど気にならない。筆触は、クローバーやウサギの形象を横切るささやかな要素へと後退してしまうのである。

 他方、やや画面から離れると、今度は、細く盛り上がる筆触が強調されて響いてくる。絵具のストロークが動感とともに縦横に走り、別の絵画空間を意識させる。

篠原猛史展

 海外のイメージから引用された作品では、アルファベット、ライトブルーのレイヤーなどとともに、黄色い雨がっぱ姿の子供の正立像が右に描かれ、その左に、同じ子供の倒立像がある。

 逆さまになった子供のイメージは、とても子供には見えず、ひっくり返した瓶、マヨネーズ容器などに見える。

 篠原さんの作品では、ドアノブ、扉、水道蛇口など、普段見慣れたイメージが登場しながら、形や空間、パースペクティブがゆがみ、錯綜する。

 サイズが操作され、あるいは障害物が視線を遮り、具象的なイメージ、オールオーバーなレイヤー、抽象形態などが重なる、あるいは、入れ子構造になる。

 見る方向によって全く異なる空間性と形象が現れる。作品との循環、記憶との循環の中で、見慣れたものが変容し、日常が非日常に変わる。

篠原猛史展

 乱舞するホタルの光のような細く青い筆触が揺らぐ扇型の黒い地。真ん中には、金庫のハンドルが描かれている。

 ハンドルという既成の形象が印象付けられるこの作品では、背景の地と浮き出た金庫のイメージがアンバランスに拮抗し、ハンドルに視点を集中させると、金庫があるように見えてくる。

この作品は、音が鳴るように、内部の空洞に種子、貝殻などが入っていて、作品を動かすと、予想外の音が響く。

 視覚のみならず、聴覚にも作用しながら、イメージについて、問い掛けてくる。さまざまな知覚、記憶を動員させ、作品と鑑賞者、過去と現在を循環させながら、見る者をわくわくさせる作品である。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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