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O JUN展 ガレリアフィナルテ(名古屋)で2024年1月16日-2月10日に開催

ガレリア フィナルテ(名古屋) 2024年1月16日〜2月10日

O JUN

 O JUNさんは1956年、東京都生まれ。1980年、東京藝術大学美術学部油画科卒業。1982年、東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻修士課程修了。

 2021年にガレリアフィナルテで「O JUN +五月女哲平展」が開催され、このときは、パフォーマンスも披露された。

 制作するときは何かをきっかけにしないと制作できない。O JUNさんの場合、日々の出来事や目にしたもの、ニュースや新聞で目にした光景など、心を捉えた事象、事物を描いてきたともいわれる。

 だが、一定の方法論、形式、コンセプトで同じような絵画を描いているわけではない。さまざまな画材を使い、連作があるにしても、そのときどきの、ある視座で描く。それは、私たちが通常持っている物差しとは、かなり異なるヴィジョンである。

 碧南市藤井達吉現代美術館で開催されている「顕神の夢—幻視の表現者」(2024年1月5日〜2月25日)にも、O JUNさんの作品が出展されていて、意外に思いつつも、とても良い人選だとも感じた。

 O JUNさんの絵は、宮沢賢治、草間彌生、岡本太郎、横尾忠則、馬場まり子、赤木仁、舟越直木、中園孔二と共に「越境者たち」という部門に括られている。

 私たちが生きる三次元の整然とした大人の意味・解釈の世界を離れる。社会が先で、後から生まれて社会化された自分が、社会の目、他人の目で見るということをやめて、詰まるところ、絵具という平面性、物質性に依拠して何ができるかを巡って生きている。

 アタマでなく、内面深くの、この社会とは違う世界との境界のあたりで描き、それでも自動運転(オートマティスム)によるアンフォルムなどには行かない。自分でしっかりハンドルを握って進む。

 アタマの中で湧き起こる、社会や他人から影響を受けた思考の重なりをより分け、できるだけ、自分のこころの中核に近づいて、そこから描くような私たちの感覚を超えた世界。そんなことをふと感じる作品である。

 驚きがあり、刺激に満ち、この世とあの世の境目で描いているようである。子供のように無垢で、そして、それゆえどこか不穏である。

ガレリアフィナルテ 2024年 個展

O JUN

 今回のような小規模な個展でも、実にいろいろな作品がある。

 遠くの防波堤と手前の海辺に集まる人々を描いたと思われる作品では、単純化されつつも、具体的な形象は残されている。イメージが、大胆な絵具の塗りや筆の痕跡、色彩の美しさ、絵具の物質性と微妙な均衡にある。

 縦位置の画面を茶と濃い灰の、とても粗いタッチで2分割した油彩画と、その2色の色彩が対応するような顔写真とが組になった作品もある。茶が背景、濃い灰が髪に対応する。

O JUN

 「暗黒ドライブ / メートル原器」という作品では、にじませた大小のカラフルな円形を数多く描いて奥行きを感じさせる空間の手前に、ステンシルで描いたような輪郭のはっきりした白い車がある。

 この車のタイヤの部分が黒い円形で、背景とリンクしている。背景の円がにじんでいるのに対し、車のタイヤの円は明瞭である。

 背景の円形のにじみの程度はさまざまで、それが空間性を意識させつつ、車のタイヤには、ぴったりピントが合っているのだ。ここに透明なレイヤーがあることが分かる。

 空間に広がる円形も、手前のフラットな記号化された自動車も見慣れたものなのに、抽象と具象、絵画空間と平面性、ぼやけた円と明確な幾何学性としての円など、異質なものが混在し、不思議な感覚にいざなう。

O JUN

 そもそも、タイヤと思った2つの黒い丸は、社会的なルールで筆者がそう思っただけで、他のカラフルな円形と同様、向こう側の世界にあるものなのではないか。そうだとしたら、車のボディは、どの世界にあるのか‥‥。

 別の作品では、数多くのにじんだ円形の手前のレイヤーに、首飾りのようなイメージが描かれているが、この形象は、フラットな白い車に比べると、絵具がべっとりしていて絵画的である。その左側に斜めに連なる4つの円にピントが合っている。

O JUN

 もっと絵画性を強く出し、いわゆる抽象画という区分に入るような、絵具の物質性の強い作品もある。

 「untitled」は、大胆に、黒や灰色のストロークを横に、縦に、斜めに生々しく重ねた作品である。余白は少なく、モノクロームのこの絵では、ランダムなストロークが主役のように思える。

 それとすぐ分かる具体的な物は描かれていない(ように見える)。だが、じっと見ていると、さまざまな情景、場面が浮かんでくる。断片だったり、もう少し広い部分だったり、全体だったりするが、筆者の知っているこの世界が現れては消える。

O JUN

 一方、「灰郎」という作品は、太い筆触が画面の上下左右の端に置かれ、中央部分が大きな余白である。シンプルながら、4つの絵具の塗りがそれぞれ個性的である。思い切りよく、平然としているようで、どこか神経質でもある。

 4つの絵具に囲まれた余白が不思議なほど大きく深く見える。見ている自分がなくなってしまうほど、どこまで奥に入っていけそうな感覚を呼び覚ます。

 具象とか抽象とか、そんな二元論がなんの意味もないというような、ただ、平面にのせた絵具で、どのような絵画が描けるのかということに集中し、通常のコンテキストや物語性、意味や象徴性、隠喩を回避し、強く印象づけられる絵画。

 それなのに、「背後」という謎めいた深奥の雰囲気を出している。それは、自分の中の描くということ、自分を見失わず、固定せず、思考のモジュールによって描くのではなく、社会の解釈、その違和感を抜けた魂の付近にある分からなさを素直に試してみることではないか。

O JUN

 外界を私たちが見知っているままに描くのでも、方法論や形式、概念に拘泥しているわけでもない。自分という「いのち」の働きと外界の物や現象との関係性に、単なるひらめきでなく、子供の頃からの経験を踏まえて、曇りなく向き合うようにしている。

 絵具が、ありていの線、形象、色彩として選ばれ、支持体の上に重なり、そのある種、分からなさという無限の可能性が、表層だけでは見えないものを開示するように描かれていく。

 これらの絵画は、この世の明確な意味、解釈からは遠ざかるかもしれない。だから、遠くからの声の感覚がある。そのヴィジョンの不可視の領域をめぐって、鑑賞者との間で語り得ないものが交感される。

 アタマのアルゴリズムから離れ、開かれた、素直な、透明な目で自分の奥深くと外界との接触のあり方を見て、世界を、絵画を捉え直している。その無心という超越において現れる何かを求めている。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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