名古屋のカルチャーWEBマガジン「アウターモーストナゴヤ」では、レビュー、リポート、トピックスなどを掲載します

松澤宥と水上旬 ニルヴァーナの頃

 名古屋の美術家水上旬と、松澤宥との最初の接点は、長良川河畔や岐阜市民センター(金公園)を会場に、岐阜アンデパンダン・アート・フェスティバルが開かれた一九六五年八月である。既に六〇年代初頭から京都や名古屋でハプニングを展開していた水上も、岐阜の前衛芸術グループ「VAVA」がオーガナイズしたこの地方アンデパンダン展に参加。長良川河畔で河原の礫にペンキで記号を付けて歩く「記号学」や、唇を震わせ、人前に不意に出現する「唇為のBUBLE」などのハプニングを敢行した。
河原に建てられた屋根付きテントの仮設休憩場では、全国から集結した前衛美術家たちが夜半まで酒を酌み交わして議論を繰り広げていた。その並み居る猛者たちのただ中にいた水上も当時はまだ二十七歳、松澤も四十三歳だった。このとき、松澤との間でどんなやり取りがあったのか水上は覚えていない。ただ水上の脳裏には、こんな光景がこびりついている。深夜、睡魔に襲われたのか、松澤が眠りこけたふうに見えたそのときだ。「あのじいさんは狸寝入りだ。全部聞いてるから気をつけろ」。水上の視線の先にあったのは、松澤を尻目に声を上げた伝説の放浪詩人アサイマスオの姿だった・・・。
読売アンデパンダン展の廃止を受け、各地に勃興した地方アンデパンダン展。翌六六年夏、大阪府堺市の金岡公園で開かれたアンデパンダン展「現代美術の祭典」(太田隆三、池水慶一ら企画)では、松澤と水上の距離は一気に縮まる。このアンデパンダン展にその身を出現させることがなかった松澤が、会場でメッセージを代読させるときの立会人として水上を指名したのだ。展覧会初日、針生一郎、中原佑介、藤枝晃雄、石子順造らによって行われた公開シンポジウムで、松澤のメッセージを読んだのは、伝説のビート、アベビート。六〇年代初頭から全国を放浪、ホーボー(渡り鳥労働者)の文化を根付かせたと言われる人物だ。松澤ともつながりをもち、当時の文化状況とも深くかかわったアベビートは、事前に、長野県下諏訪町の松澤を訪ね、メッセージを受け取った後、松澤の指示通り、京都に立ち寄り、水上と合流。二人は堺に同行し、ともに松澤の口上代読パフォーマンスにかかわる「任務」を遂行する。こうした交わりを経て、六〇年代後半、松澤が京都で個展を開いたときには、京都の水上のアパートに寄宿するまでの仲になっていた。深夜まで尽きせぬ議論を深め、互いに相手の存在を認め合うようになった二人に、決定的な転機が訪れるのは六九年だ。
この年の八月初め、長野県信濃美術館で催された「美術という幻想の終焉」展に参加してほしいと、水上は松澤らから依頼を受ける。芸術とは何か、今、芸術は可能なのか、という問いがラディカルに投げ掛けられた当時の趨勢にあって、松澤、春原敏之らによるこの自主企画展も、造形的な創造行為の放棄を目指し、各地の作家に呼び掛けられたものだった。当時、関西のハプニング集団「The PLAY」の一員だった水上は、八月一日、PLAYの「CROSS MEETN プレイ氏のもうひとつの旅」に参加し、遠く九州の阿蘇山麓にいた。松澤らの展覧会への参加を決め、ひとり熊本から長野に入った水上は、会場で、倒れ伏しながら自分の姿形を床にトレースして進むハプニングを試み、その帰路、松澤に促されるまま、松澤、妻の朝子と一緒に松澤の自宅がある下諏訪町へ向かう列車に乗り込んだ。
「美術という幻想の終焉」展より先鋭的な展覧会、実体的な造形物を完全に消し去った「空」の展覧会は可能だろうか。下諏訪町への車中、松澤から意見を求められた水上は、物と不純物を排した透明の思考に賭けた展覧会の可能性に目を開く。水上自身、六〇年代末頃、リアクションを欠いた偶発的、挑発的な演劇的設定に陥りつつあるハプニングが氾濫する状況に危機感を抱き、言語表現へと比重を移していた時期だった。この車中でのやりとりが、翌七〇年八月、京都市美術館で開かれた「ニルヴァーナ|最終芸術のために」実現の契機となる。物の不在を企図しながら無形の表現への問題意識が不明瞭だった「美術という幻想の終焉」展を乗り越えるため、二人の内側で、オブジェクトを完全に消失させる展覧会への意思が、ある合意に至ったと見るべきだろう。
水上らが松澤宅に到着したのは午後八、九時頃。旧家二階の座敷で話し込み、食事の後、酒を飲みながら、有形の創造行為を否定した「ニルヴァーナ」展の構想、展示コンセプトや会場、作家の招集方法などについて話し合い、そのまま一泊。翌朝、「プサイの間」に入った水上は二、三十分、部屋にとどまり、簡単なパフォーマンスをした後、携帯していた竹鼓と灯り代わりの巻き貝をそこに残して退室する。別れ際の「また連絡する。手伝ってほしい」との言葉通り、松澤は早速九月に、ニルヴァーナ展の会場探しのため、京都の水上を訪問した。京都市美術館の学芸員平野重光との交渉の中で会場のメドがたち、会期も翌七〇年の八月十二、十三、十四日の三日間と決まる。京都にいた水上は、美術館側との交渉の窓口になった。十一月には、松澤は、六九年二月に創立されたばかりの美学校(現代思潮社)の今泉省彦を連れてやってくる。二人は、松澤が美学校で主宰した芸術思考の教場「最終美術思考工房」を手伝ってほしいと、水上に依頼。水上は承諾し、七〇年四月から七三年三月までの三年間、松澤とともに、一週間交代で、神保町の美学校で講師を務めた。講義の引き継ぎのため二週間に一度は、中央線経由で下諏訪に寄るなど、会う機会が増え、二人は密接なかかわりを続けていく。
「ニルヴァーナ」展には、当時、言語概念系の作品を発表していた八十五人ほどの作家が出品した。松澤、水上のほか、小林起一、栗山邦正、河津紘、田中孝道、春原敏之、赤土類、金子昭二らのほかに、前山忠、宿沢育夫、芦沢タイイ、米津茂英、河原温、河口龍夫、瀧口修造らもいた。「非実体主義」「消滅主義」「不可視の表現虚」など、主催者側の参加呼び掛け文に対し、写真、文字、記号、磁気テープ、メモ、ビラなどの類の作品が集まり、三日間の会期のうち、初日には二階全室に作品が展示され、それらが二日目には半分の展示室に収められ、最終日には一部屋に押し込まれた。美術館が閉館となる八月十五日の終戦記念日には一切が無に帰するというオチであった。
七一年十一月一日、水上は、父方の実家に近い名古屋へ京都から転居。その後、言語表現はじめ多彩な活動を展開しながら芸術活動の根幹を「生」そのものに還元していく。松澤を中心としたニルヴァーナ系(ニル派、かみ派)の作家たちは、七〇年代前半を通して運動体としては終息に向かい(七三年の京都ビエンナーレでは、「ニルヴァナ資料集積 究極表現研究所」と題してニルヴァーナ系作家の資料が展示された)、それぞれの作家は、ニルヴァーナに共有される物質文明批判をそれぞれに咀嚼しながら各地域での活動に重点を移す。反体制、反エリート主義の立場のニルヴァーナ主要メンバーたちはおおよその流れとして、ものの余剰を排除する作品傾向から、東京資本や美術界の既成秩序への反抗、自然や地域、プレモダンへの回帰に傾き、その表現を日常の生そのものに溶解させていった。
とはいえ、水上たちと松澤の関係は切れることはなく、七七年、松澤がサンパウロ・ビエンナーレに出品したときには、水上らニルヴァーナの作家たちのもとに「ニルヴァーナ系の作品を展示したい」と作品資料の出品を求め、水上もそれに応えている。ニルヴァーナの作家の中でも、とりわけ松澤宥、水上旬、金子昭二、小林起一、河津紘、田中孝道、春原敏之、赤土類、栗山邦正の九人の間には、背景となる世界観において理解し合える精神的なつながりがあった。九人はそれぞれ、「虚空間状況探知センター」(松澤)、「古式汎儀礼派」(水上)など、別名を持ち、七〇年の「ニルヴァーナ」展を作り上げる過程では、「内星体」として互いに共感を強めた。以後、とりわけ松澤を除くメンバーは、それぞれ各地域に散り、静かにその思考を日常の中に陥入させた全的な表現の在り方を追求することで、煩雑な生活に同化しかねない極限の芸術の不可能性によって逆説的に芸術を守り抜こうとしたと言えるかもしれない。もっとも、だからと言って、彼らと松澤との内なる紐帯が破断したとは言えない。その意味で、ニルヴァーナから三十年以上を経たささやかな試みとはいえ、「内星体」と呼び合った九人のうち、松澤、水上、小林や、河津紘、春原敏之、赤土類の六人がそろって出品した広島市現代美術館での「松澤宥と九つの柱」展(〇四年十二月から〇五年一月まで)は、一つの問題提起となるだろう。会期初日の〇四年十二月十八日、松澤のパフォーマンスに続き、水上の「奏捺の儀」、赤土の「舞為」、小林の「そば打ち」のパフォーマンスが披露され、かつてのニルヴァーナ派の競演が実現した。だが、その翌〇六年、一月にその「内星体」の一人、栗山が亡くなり、七月には小林の訃報も伝えられた。「ニルヴァーナ」展のポスターを作った米津茂英も八月にこの世を去り、十月には、松澤も逝った。ニルヴァーナの活動はもちろん、アベビート、アサイマスオなどの存在を含め、当時の文化状況は「面」として未だ見えにくいと言わざるをえない。ヒロイックな存在と単線的な流れで割り切る歴史展開は分かりやすく、また画廊や美術市場、美術館という制度を核とした美術界によって導かれやすい文脈だが、その問い直しがないとすれば、残念なことだ。重要な転換点となった歴史の現場でさえ、英雄の登場に一元化された叙述は、現象の実態を克明にたどるどころか、歴史の真の担い手や主体を忘却することになるのである。
本稿は、水上旬へのインタビューを元に、井上昇治がまとめた。初出は「REAR」(2007年16号)で、その後、加筆修正した。