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湯浅未浦展 “時・刻む・想”

L gallery(名古屋) 2019年11月9〜24日

 湯浅さんは愛知県豊明市出身、在住。東京藝術大学で深井隆さんの指導を受け、2004年に大学院彫刻専攻を修了した。深井さんがそうであったように、樟(クスノキ)を素材にしている彫刻家。静かに、しかしラディカルに木彫を追究し、外連味や流行へのこびがないという意味でも、これからが楽しみな存在である。

メーンとなる作品は、台座にのった全身像の人体「刻々と‥」。すっくと立ち、右手は垂らしたままやや前に、左手は真っ直ぐ下に伸び、指先はそのまま植物のようになっている。顔はやや上を向いている。全体のプロポーションだけ見ると、昔の公募展に並びそうな作品だが、表面は透かし彫りのように穿たれ、血管とも木の根とも思える線状の曲線が絡みあってできている。
極めて触覚性が強く、異様ではあるが、決してグロテスクではなく、生命的なものと時間の経過、流動感を強く感じさせる。湯浅さんは、自身の作品について、生というものが正だけでなく負の要素との両面によって成り立っていると説明する。生きるということは、成長する時間だけでなく、衰弱していく時間と表裏にあるということかもしれない。それゆえか、先ほど、植物のようになった、と書いた左手の指先はただれているようにも見えるし、両足も、うねるような台座から生成するようにも溶解して大地と一体化していくようにも見える。死は生の対極でなく、延長にあるものだと。

 それは、他の作品で、内臓的に見えるもの、生々しい肉質に見えるものにも当てはまる。そうした作品が、張りがあると同時に、弛んでいっているように見えることからも分かる。生とともにある緩慢な死というべきか、生成と腐敗という真逆のベクトルが内部で葛藤しているように彫刻が出来上がっている。こうした複雑な様相の作品だが、寄木造でなく、一木造である。
 他の作品でも、一部は中の空間を見せるようなものがある。網目のような構造からも分かるように、全くの量塊でなく、中が空洞で内なる空間を見せている。そうでなくても、襞状、あるいは根っこのようなもの、肉質、内臓的なものであるなど、触覚性が強いことは、強調してしすぎることがない。本人は、空間から彫刻を掘り出す感覚を触覚性よりさらに進めて、「嘗めるように」と説明している。

 湯浅さんは、人体の作品について、「男とか女とか、そういうことを考えると造れない」と語っている。つまり、この人体はそうした属性を捨象した人間そのもの、一般的な言葉で言えば、たとえ人の形をしていても、抽象的な人間を作っていることになる。他の作品でも、感情のようなものをテーマにした作品から、抽象性を感じるのだが、本人は、すべて具象的なものだと言う。おそらく、この嘗めるような触覚性から形作られるものが、作家の感覚では、抽象ではなく具象なのだろう。

 つまり、単なる輪郭ではなく触覚性、その波打つような触覚性、根のようなものが巻きつく感覚、表面がねじれ、穴が穿たれ、内部の空洞が開いていく感じが、連続する時間の世界感覚として、感情の積み重なるものとしてあって、それをつかむように手を動かしていく感じが具体的なのだと思う。つまり、西洋的な自他の対立の中で、対象を量塊として捉え、モニュメントとして築くのでなく、自分自身が空間と一体となって、1つの素材である木と1つになりながら、その中を嘗めるように手を動かす。


美術評論家の天野一夫さんが、L galleryが2017年に出した湯浅さんのカタログに寄せた文章で、その作品世界について、橋本平八が1928(昭和3)年に院展に出品した「石に就て」や、それについて言及した戸谷成雄さんを引用し、「内側と外側との力学的なサーキュレーション」と書いている。あるいは、毛利伊知郎さんが「異色の芸術家兄弟 橋本平八と北園克衛展」(2010年)のカタログに書いた「橋本平八—作品と思想」によると、橋本平八は、一木造で、用材内部にひそむ自然の力を作品に込めようとした。「石に就て」では、石に宿る聖なるものを表現するために写実的に表現したという。
今回の個展では、「石に就て」のように、一木造で作った作品の下部に直方体の台座が残されているものがあった。人体を理想化し、神の姿にした西洋に対し、見えない、形のない(ある意味、抽象的な)森羅万象を彫刻の対象にした橋本平八と、一木造で見えない時間や感情を《具象的》に表現する湯浅さんは、確かに触れ合うところがある。湯浅さんが独自の彫刻観を深め、作品に結実させるのは、もう少し後かもしれないが。

湯浅未浦
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