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犬飼真弓 日常という存在が我々にもたらす暴力

 STANDING PINE(名古屋) 2020年6月13日〜7月4日

 犬飼真弓さんは1986年生まれ。名古屋芸大を卒業し、名古屋を拠点に、歪んだ、幽霊のようなおぼろげ、はかなげな顔を描いている。モノクロームに近いほど色は抑えられ、目を引くような色彩を伴うことはない。線は極めて繊細。鉛筆、顔料、ガッシュ、墨、水彩などによる朦朧とした筆跡、微妙な濃淡を丁寧に重ねながら妖艶で言い知れぬ不安、悲しみをたたえたイメージをつくりだす。

犬飼真弓

 生きていることの痛苦とともに描く—。犬飼さんは、何気なくやり過ごしがちな日常の痛み、悲しみ、苦しみが自身の中へ降りてくることで描けるのだと聞いた。描くことで救われていると言えばいいのだろうか。
 そうした日常の痛みは、たとえ個人的な問題であっても、人間が生きる普遍性、人間の不可解さ、生きていくことに伴う空虚感や無力感、なぜ生きるのかという問いと不可分である。

 こうした絵画は、満たされている感覚では描けない。生きることの虚無感と欠落感、孤独が犬飼さんの作品を成り立たせているのである。そうした人間の悲惨さを直視すること、痛みと絶望をありのままに受け入れることが、犬飼さんにとってとても尊い。なぜなら、それこそが暗闇の中の光、生きることへの肯定に通じるからである。

犬飼真弓

 繊細な筆致による歪んだ人物以外に、今回、小品ながら、マットに黒く塗られた作品が展示された。イメージは確認できず、ミニマルな単色画のようだが、注意して見ると、わずかに白みがかった箇所がある。それぞれ、「肖像画」「人物」というタイトルが付いている。
 このモノクロームの小品の基になっているという「制作のためのコラージュ」も展示された。雑誌か新聞の切り抜きのようなものが貼られたコラージュ作品で、2つの顔が浮かび上がる。印刷された文字がうっすら透けるが、全体に霧がかかったように白い皮膜が覆っている。今回の個展に出されていない2015年の作品に、これらの作品につながる、黒地にうっすら顔が確認できる作品がある。多分、黒の地に顔のイメージが深く沈み込んでいくような作品である。

犬飼真弓
犬飼真弓
犬飼真弓

 あるいは、目とまぶたを画面いっぱいに描いたように見える作品「日々」(2点)。やはり、繊細な筆触で、世界の混沌を映しているようにも見える。朦朧とした諧調で描かれ、外界を見つめているようでありながら、焦点が定まっていないような浮遊感が見て取れる。

  犬飼さんは、これら一連の作品によって、「顔」そのものを描いているわけではないという。歪んだ顔に見える作品も、ほとんど黒一色でありながら「人物」「肖像画」というタイトルが付された小品も、あるいは、目のクローズアップに見える作品「日々」も、「顔」ではないと。とすれば、この薄暗く、くすんだ画面は一体、何を指し示すのか。

 

 自分は過去にとてつもなく苦しくて、自分を含め全てを嫌悪し、まるで死んでいたようなグレーな日々をただ見送っていた時期があったが、今は幸せだと言える。それを経験してから今改めてそれぞれの立場にたった時、『日常』という存在はある人にとってはとても優しい思い出だけど、ある人にとっては終わりのない地獄でもあると気付いた。

犬飼さんのステートメントより

 犬飼さんの言葉から、これらの作品が、日常の残酷性と暴力性、虚無感と孤独に根ざしたものであることが分かる。酷薄な日常の痛み、虚しさ、孤独に心震わせる日々。犬飼さんが描く傷だらけに歪んだ顔、暗闇に沈む顔、おぼろげな目は、苦しんだ過去の時間、ヒリヒリするような日常、未来への不安の現れではないだろうか。

 それでも、全き暴力性、残酷性、絶望や闇ではなく、絵画空間を響きわたる妖気と優しさ、光への憧憬、弱々しくもかろうじて前を見る意思のようなものが共感を誘うのではないだろうか。それは、人間の絶望、無力感、闇の中で、目を開いたものだけが知りうる、生きることの美しさと癒やし、犬飼さんという1つの生命が感得できた「開かれた世界」である。
 その意味で、犬飼さんがこの世界を見る大きな瞳を描いているのは象徴的ではないか。空虚の深みに苦しんだからこそ、犬飼さんは生の輝き、日常の美しさ、根源的な人生の肯定を見たのでないか。

 犬飼さんが感じた死んでいたような感覚、生きることの虚しさというのは、程度の差こそあれ、人間が存在するための普遍的な条件、人間だからこそ経験する不可避の感覚であろう。
 そう考えると、犬飼さんの作品は、ある「境界」を描いたものだともいえる。美しく楽しい日常と醜く辛い日常、開かれた世界と閉じた世界、光と闇、生と死。暗闇のような、顔がかき消される世界と響きわたる優しさと共感、美しさの世界である。

犬飼真弓

 犬飼さんは自分に正直である。分かりやすいほどに、自分の中を曝け出している。歪み、おぼろげで傷を追った顔は、日常世界の優しさ、美しさと、残酷さ、虚無感の境界である。犬飼さんは、その境界を行き来しながら、苦しみ、痛み、傷とともに美しさを描いている。

 私たちは、日常を生き、世界に晒されている。穏やかな、うれしく、楽しく、幸福で美しい生と、非情で酷薄で、苦しい生。誰しも、犬飼さんの作品のように境界にいるのである。そう思うと、犬飼さんの描く傷だらけの顔、消え入りそうな顔の向こう側に、美しさ、優しさと共感の響きわたる開かれた世界が見えるのではないか。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

 

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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