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土屋公雄 愛知芸大教授退任記念 森北伸との2人展「月と家」豊田で開催

豊田市美術館ギャラリー(愛知県) 2020年1月15〜25日

 愛知県立芸大彫刻専攻の土屋公雄教授の退任に合わせ、准教授の森北伸さんとの2人展が実現した。
 土屋さんとの面識はないが、土屋さんが英国のチェルシー美術大学大学院彫刻科修士課程を修了し、1990年に朝倉文夫賞を受賞した直後の頃、筆者は新聞記者として赴任していた土屋さんの出身地の福井で作品に触れ、以後、かつて存在した愛知県岡崎市のノブギャラリーや、1996年の東京・原美術館の「虚構と記憶」展など、折に触れ作品を見てきた。流木や建築廃材、廃屋を燃やした灰など、記憶や積層する時間を内在させた物質を素材に、パーソナルな人間の営みを見つめ、それが交差する文明論的な時間、歴史をも洞察した。一方、森北さんは、これもまた既にない名古屋の画廊・白土舎(筆者が最も頻繁に訪ねた画廊の1つ)で1998年以降、個展を中心に作品に接してきた作家である。

土屋公雄

 土屋さんは、一貫して、所在/記憶をテーマに制作し、時間が重要なファクターになっている。一方、森北さんがイメージの源泉にしているのは、人間の成り立ちと世界との関わりだろう。20年ほど前の頃は「人体/家」がモチーフになっていた。今回の展示のタイトルは、2人の過去の作品の中から、接点として抽出された「月と家」である。展示会場を見ていくと、2人の作品が響きあうような構成になっていた。
 土屋さんの作品では、陶磁器の丸皿を割って月の満ち欠けに見立てて壁に展開した作品「MOON」(2004年)、家庭1軒分を燃やした灰をすりガラスの「家」に納めた「不在」(1992年)がメインである。「MOON」にはかつて、流木を素材にした作品もあったように思う。陶磁器の「月」は、詩的というだけでなく、それを使っていた見知らぬ人の記憶や過去の時間をも内在させ、食事を取るという原初的でパーソナルな人間の営為が、超越的な永遠ともいえる宇宙的な時間、天体の運行法則と響きあい、大変、美しい。

土屋公雄

土屋さんの廃屋の灰は、焼尽してなお、そこに住んでいた人たちのエピタフ(墓標)のようである。その家には家族が暮らし、その人たちの人生、団らん、笑い、喜びや悲しみ、苦悩があった。生と死。灰は積み重なった過去の年月の記憶を宿らせ、今によみがえらせる。
土屋さんの作品は寡黙である。静寂な佇まいで記憶の響きをやっとのことで発しているようである。過去の生と死は切り離された時間でなく、円環する時間となってそれを見る人間にささやき、現在を問い、そして未来の予兆も引き連れてくる。ささやかなパーソナルな時間を人類と宇宙の時間と交差させ、過去から現在、未来が積層した厚みを持ったものとして意識に上がってくる。

 土屋さんと森北さんの共作もあった。森北さんが制作したアルミ円盤と木の脚によるテーブル(台)の上に、土屋さんが小立体を展示した作品である。立体は、木製と石製の家型、ガラスの家に収納された地球儀である。木製の家型は、2つがペアになって2組ある。1組は、それぞれが傾いて互いに食い込み、もう1組は、逆さまになった家型が接近しながらぎりぎりくっついていない。ガラスの家の中の地球儀は、1つの地球儀から、別の地球儀がこぶのように増殖したような奇妙な形態。グラスの割れた破片をワイングラスに積みあげた花などを含め、メタタファーに富む小品である。

土屋さんの作品と結びあう森北さんのモチーフに《家》がある。1990年代後半頃の森北さんは、歪んだ家型の立体の上や中空に体が溶解しかけた人型が浮遊する彫刻を制作していた。アジールとしての家、帰るべき場所である家と人間の不安定な関わりが見て取れる作品だったように思う。人体は、森北さんの主要なモチーフだが、体の一部が細長く伸びたり、翼のように別の機能を持ったり、ユーモラスに変化していった。家との関係を含め、精神と外界との不安定なありよう、不条理な世界を探っている人間、空間をさまよう自我、旅する自意識がかたちになって現れているとも感じた。

森北伸

 それは今回、標本のようにおびただしい数を展示したドローイングに顕著に読み取れた。黄色いランプに照らされた台上のドローイングには、手がぐにゃりと曲がって伸びるなど、体一部が変形した異形の数々が描かれている。人体が細長く伸びたものや、人体が飛行機になったもの、体の一部が切り離されたものもある。さまざまな動作をしていて、人体を、あるいは人間世界を距離を持って突き放して眺める眼差しも感じた。理解を超えた存在としての人間。森北さんのドローイングには、変態によって別のものになった人間、滑稽な姿や体勢、格好になった人体が現れる。おかしな人間、憎めない人間、混迷する世界でけなげに動く人間、生き延びようと自分を拡張する人間がいる。

 森北さんは絵画作品も4点出品した。いずれも淡い色彩で描かれ、ドローイングの人体よりもさらに抽象化されたと思しき引き伸ばされた形が絵画空間の中でやじろべえのように危うい均衡とともに位置付けられ、空間との距離を探っている。それらの絵画が壁にかけられるのでなく、それ自体が作品ともいえる画架のような台に載せられ、壁に寄りかかっている。
 この画架も絵画もどことなく不安定なのだが、そこに注目すると、土屋さんと森北さんの共作で、家型の小立体が載せてあるアルミの円盤と脚の関係も、中心からずらしたようにやはり、不安定な印象がある。この接点や支点の乏しさ、弱さ、落ち着かなさ、人体等に見られる線の細さ、自在さ、はかなげな軽やかさは、森北さんの作品によく見られる印象だ。どっしりと安定するのではなく、さまざまなに変幻して、世界を探査しているようでもある。記号化さえされない人体は、線のように伸びて空間を探り、世界をまさぐっている。

 人間の記憶、歴史、時間をはらんだ土屋さんの作品と、世界や空間の不安定さの中で、うつろい、何かを希求するように変幻している森北さんの予兆的な人間。それぞれの感性が響きあった展示になっていた。

土屋公雄 森北伸
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