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あいちトリエンナーレ リポート 豊田市美術館・同市駅周辺③

小田原のどか他

 小田原のどかは、日本の近代、なかんずく、戦時中の公共空間での「彫刻」と国家権力との関係、人々の眼差しや無意識、制度や表象などを批評的に調査し、作品化している。「彫刻1:空白の時代、戦時の彫刻/この国の彫刻のはじまりへ」など本も書き、研究者としても活動。今回は、豊田市駅周辺の3カ所で展示した。

 一つは、豊田市駅西の公園に設置された、戦中から戦後にかけ東京・三宅坂に実在した台座を再現した「↓(1923-1951)」である。軍人の騎馬像を設置するために造られ、第二次世界大戦中の物資不足により金属回収のため騎馬像が供出されると、台座の上は空になり、その後、戦後の51年に台座が再利用され、平和を象徴する3体の裸婦像「平和の群像」が設置された。こうした変遷に、小田原は、国の政治の変化に反応する彫刻という存在の不可思議さを見る。台座に何が上げられるかの意思は、国が握っているのではないか。この展示では、鑑賞者が自由に台座に上り、また下りることができる。権力へのアンチテーゼだろう。

 小田原さんがトリエンナーレ用に編集した「Look at the sculpture」によると、この三宅坂は、かつて帝国陸軍の拠点で、陸軍省や参謀本部などの中枢施設もあった。この軍人の騎馬像「寺内元帥騎馬像」を制作したのが、彫刻家の北村西望である。一方、51年に据えられた「平和の群像」の原型を作った作者は、東京芸大教授だった菊池一雄。台座を騎馬像の時より低くし、あえて親しみやすくしたのである。

 豊田市駅の1階部分には、ネオン管を使った彫刻展示「↓(1946-1948)」と、アーカイブ展示があった。ネオン管は記号のように立ち、うっすらと赤い不気味な光を発している。羽子板の羽根のような形を示す輪郭をネオン管で作ったシンプルな作品だ。

 作品の説明文によると、1946年から1948年まで、長崎の原爆投下中心地に設置されていた矢形の標柱からかたどったものだという。多くの方が亡くなった爆心地近くにあったのだが、作家は、この標柱から慰霊や追悼の役割が排除された背景を探っていき、この矢形標柱を戦後日本の公共彫刻の起点と位置付ける。

 「Look at the sculpture」によると、建立者不明で、注意が払われることすらなかった。占領下の日本では慰霊が禁じられ、市が慰霊のための空間を構想していたにもかかわらず、GHQの占領政策で政教分離の立場から、戦没者の公葬における宗教的儀式や行事、記念碑・銅像建立の禁止が発せられたという。この小田原編集のペーパーや、アーカイブの資料には、その後の経過も詳しいので、興味がある人はぜひ読んでほしい。特に、その後、1955年に、戦時中、戦意高揚彫刻を作ってきた北村西望による「平和祈念像」が作られたというねじれには、日本彫刻の宿痾のようなものを感じずにはいられない。

 こうしたモニュメント・彫刻と国家権力との関わりは、キューバのレニエール・レイバ・ノボが豊田市美術館で再現した旧ソ連の巨大モニュメントとも響きあう。併せて眺めると、深く考えさせられる。

 この他に、豊田市美術館では、星型の光を天井に向けて投影し、鏡に反射させて床に落としたシール・フロイヤー、古代とSF的想像力が共存するような彫刻のアンナ・フラチョヴァー、豊田市駅周辺では、ユーモアたっぷりに架空の遺跡発掘現場をつくりあげたトモトシ、映像作品のアンナ・ヴィット、観客参加型の「レンタルあかちゃん」の和田唯奈(しんかぞく)らがいた。

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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