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「版画家・野村博と『夕刊新東海』」愛知県美術館で11月21日まで

野村博

 名古屋・栄の愛知県美術館で2021年10月8日~11月21日、2021年度第2期コレクション展の一環で、特集展示「版画家・野村博と『夕刊新東海』」が開かれている。

 戦後、名古屋で創刊された新興紙『夕刊新東海』(新東海新聞社)の記者で、のちに版画家として活躍した野村博さん(1923〜2008年) の旧蔵資料を基に同館のコレクションを配した好企画である。

 1990年代ごろまでの新聞では、文字ばかりだと読みにくいので、紙面のアクセントとして挿絵(カット)を入れ、新聞社がその原画を地元の画家に発注していた。

 『夕刊新東海』で美術担当の記者を務めた野村さんの旧蔵資料に、このカットが多数遺されていた。野村さんが、新聞掲載用にこの地域の画家などに依頼したものである。

 今回は、それらのカット原画と、それを描いた美術家たちの作品を展示することで、団体を超えたこの地域の美術家との交流を浮かび上がらせている。

  いわば、当時の新聞紙面から垣間見える戦後の愛知県の美術状況を、作品とともに紹介する試みである。

 ちなみに、今はCGが使われるようになって、カットは少なくなったが、筆者が美術記者をしていた1990年代はまだ、東海地方の画家の皆さんに原画を依頼していた。

 三重県出身の元永定正さん(1922〜2011年)も、筆者が電話でカットをお願いすると気安く応じてくれて、何枚も送ってくださった記憶がある。

 野村さんについては、2020年12月にギャラリーA・C・S(名古屋)で開かれた展覧会レビューも参照してほしい。

版画家・野村博と『夕刊新東海』

 会場に掲示された解説によると、 野村博さんが記者として所属した『夕刊新東海』 は、1946年8月、戦後の新興紙の1つとして生まれた夕刊紙である。

 戦時体制下の新聞統制によって、大手紙と一県一紙に制限された新聞の発行が戦後、GHQによって撤廃され、各地で新たに新聞が誕生したのである。

 その中に、大手新聞社の夕刊紙のようなかたちをとる新興紙があり、中部日本新聞(今の中日新聞)系の『名古屋タイムズ』 、朝日新聞系の『夕刊新東海』が創刊された。

 野村さんは名古屋市出身。1947年、帝国美術学校(今の武蔵野美術大学)西洋画科を卒業し、「夕刊新東海」 発行元の新東海新聞社に入社した。社会部に籍を置きながら、美術記事も担当した。

 野村さんが遺した多数のカット原画からは、野村さんを含む東海地方の画家たちの幅広い交流が想像される。

 会場では、1947年から1952年12月の休刊までに『夕刊新東海』に掲載されたカット原画などを紹介するとともに、それらを提供した画家らの作品を展示した。

 北川民次、下郷羊雄、伊藤廉、杉本健吉、田村一男などのカット、絵画が紹介され、美術家たちの熱い思いが交錯する。

 カットだけでなく、写真が紙面に掲載された一例として、名古屋出身で日本のシュルレアリスム写真の先駆者として知られる山本悍右(1914〜1987年)の作品が紹介してあるのも興味深い。

 1950年代半ばからは、野村さん自身も版画作品を発表。 美術グループ「朱泉会」に参加した。今回は、野村さんのエッチング、ドライポイント、木口木版などの版画も展示している。

 野村さんは1952年には横浜市に転居。『時事新報』(今の産経新聞)の記者となり、1961年まで勤務した。制作は続けられ、名古屋造形芸術短期大学で後進の育成に当たったこともあって、名古屋との関係は続いた。

 愛知県美術館は2009年度に遺族から版画の寄贈を受け、2019年度には、新たにスナップ写真やカット原画などの資料類を受贈した。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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