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米山より子展 跡ー水と鉱物 ハートフィールド(名古屋)で7月27日-8月6日

ハートフィールドギャラリー(名古屋) 2023年7月27日〜8月6日

米山より子

 米山より子さんは埼玉県生まれ。1981年、東京芸術大学美術学部工芸科を卒業し、83年に同大学院美術研究科彫金専攻を修了した。

 東京芸大では金工技法を学んだが、当時から現代美術を志向し、金属を中心としたミクストメディアの作品を制作するようになった。

 1985年に拠点を愛知県に移している。制作は、子育てなどで十分に時間を割けない期間を挟みながらも、継続。2003年ごろ、伝統的な手漉き和紙に出合ったことで作品が変わった。

米山より子

 和紙に絵を描く者にとっては、和紙はイメージを載せる支持体に過ぎない。しかし、和紙職人にとっては、和紙こそが自分の心血を注いだ完成品である。

 和紙に魅せられた米山さんは、和紙という素材そのものを探究し、和紙の繊維をほどく、すなわち、素材を遡ることで自分の作品の核となる部分を掘り下げた。

 そこから、和紙に使う米糊にも関心を広げ、和紙と米、そこに深く関わる水が制作の基本要素となる。ものとものとの境界、関係性というコンセプトから、人体が捉え直され、和紙によるトルソの作品などが生み出された。

 現代美術を目指しながらも、素材への洞察を怠らないのは、大学での専攻が工芸であることが影響しているのだろう。

米山より子

 現在は名古屋芸術大学教授。各地での個展のほか、2014年の古川美術館・為三郎記念館特別展「つむぐけしきよむこころ米山和子・祖父江加代子」、2016年の名古屋市美術館「ポジション2016」展などにも参加している。 

 素材そのものに分け入るように入っていくと、素材の変化を誘起する閾値の感覚が生まれてくる。素材に加わる刺激によって、ぎりぎりのところで現れる素材の繊細な変化への感度が上がってくる。

 こうして、大学、大学院で学んだ金属と熱の関係が、和紙繊維と水の関係へと置き換わったのである。

 素材を分析的に見ていくと、その素材が記憶した自然本来の原初的な姿や、うつろいというのか、そうした素材と他の物質との関わり、素材と別の物質との境界で起きる変化、例えば、素材と水、素材と熱の関係によって現れる美しさに鋭敏になる。

米山より子

 そこにいかに制作者が関わるかーー。米山さんの作品を見ていると、ものとものが関係する繊細な変化、美しさに、自分自身という作家性がどう関わっていこうかという、少し引いた、生活感覚から宇宙の摂理を捉えた姿勢が見て取れる。

跡ー水と鉱物

 今回は、インスタレーションでなく、和紙に銀箔、岩絵具、膠、金属粉、胡粉、水などを使っ制作した平面作品である。2019年に、愛知県立芸術大学大学院日本画領域研修生を修了したことが、今回の作品の背景にある。

 和紙について知る延長で保存修復を学ぶつもりが、日本画そのものへも関心を深めた。そこから制作に取り掛かったのが今回の平面作品で、発表は初めてとなる。

米山より子

 これらの平面作品は、インスタレーションのエスキースという位置付けなので、近いうちに別の作品として展開されるだろう。

 2020年8-9月にあった岐阜県池田町の極小美術館での個展のときと同様、今回も「あめつちの詞」がモチーフとなっている。

 この、平安時代に作られた48字の誦文によって、作品から、イメージが広がることが構想されている。

 展示全体の狙いを暗示するものとして会場に展示されたのが、自宅の庭に10年ほど置いて、雨水にさらした銅板である。緑青がふき、「自然が描いた絵画」のようである。

米山より子

 この作品に見られるように、今回の展示は、水がとても重要な位置を占めている。

 他の作品では、和紙を支持体にしているが、一般的な意味で何かのモチーフを描いた作品ではない。金属、鉱物(岩絵具も鉱石を砕いて作った粒子である)と水の関係、その関わりの痕跡が作品の要素になっている。

 例えば、額に入った比較的小ぶりな作品は、和紙の全面に銀箔を貼り、水が浸透しない状態で岩絵具を泳がすように載せて、その痕跡を定着させている。筆者は、墨流しに似ている発想だと思った。

 銀箔の上で、岩絵具が流れ、コントロールはきかないが、乾く直前のわずかに調整できる時間を重ねるように制作した。そこに金属粉と胡粉などで、ドットが連なる輪など小さな形象を加えている。

米山より子

 大きな、額のない作品は、和紙の表と裏から、合計20回ほど水と墨をたらし込んだり塗ったりして、いわば薄墨のかすかな重なりによって下地にしている。

 その上で、礬水どうさ引きをし、岩絵具の緑青を塗って画面を作ったり、面相筆で胡粉を使って縦線を引いたりして作品化した。

 いずれの作品でも、ただアタマで考えたことを形にするのではなく、ものとものが出合うことで生まれることの神秘的な問いにどう応え、どう創造できるかという思いを感じる。

 言い換えると、他力のいざないをどう受け止めるかという受動の創造者、余白、あるいは、容器としての作者、がいるということである。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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