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竹田大助の謄写版モノタイプ「Kへのオマージュ」をめぐって 1950年代の沈黙ともう一つの沈黙

序 沈黙について

 「豊穣なカオスから眼覚めるコスモスへの渇望を僕の喉に啓へた熱い沈黙の画家へ」。古びた詩集の表紙をめくると、いくらか鋭角的な文字でこう書かれてある。今からちょうど五十年前の1955年5月、最初で最後の詩集を発表した若き詩人、前田耕(1935年、名古屋市生まれ)が、その一冊を親友だった画家、竹田大助(1927年、名古屋市生まれ)に贈る際に書き添えた言葉である。
当時、前田は二十歳で、竹田は二十八歳頃。八歳の年齢差があったものの、二人は50年代に互いを認め合い熱き交流を続けた。無名ながら早熟だった前田は詩集のタイトルを『目撃 炎と屍による組曲』としながら、表紙にはそれを記すことなく、ただ竹田の自宅から持ち出した小さな絵のみをカットとしてあしらった。前田はその約二年後、57、58年頃に失踪し、北海道で自ら命を絶つ(注1)。一方、61年まで制作に打ち込んだ竹田もその後、美術界と絶縁、私的に小品を描く以外は、発表のための制作を一切やめ、隠棲してしまう。前田が竹田について語った「沈黙の画家」とは、前田の意味するところを超えて実に意味深なのだ。
50年代を通じて、幾何学的抽象からシュルレアリスムへと展開した竹田は戦後、価値観や社会構造が激変する中で、その変化に敏感に呼応する形で作品を独自の主観的リアリズムへと進化させたのだが、わずか十年余で文字通り深い沈黙に入る。ここでは、竹田が活動した十年を振り返るとともに、とりわけ57年の夏という極めて限定された時期に制作された謄写版(ミメオグラフ)のモノタイプ・シリーズに光を当てたいと思う。
というのも、謄写版シリーズは制作後、すぐに竹田によって封印され、79年、竹田自身によって再発見されるまで二十二年もの間、作家自身も忘却の彼方に葬った特異な作品だからである。ちなみに後年、竹田がこの連作に付けたタイトル「Kへのオマージュ」のKとは前田耕のことである。加えて言えば、これらの作品は美しく異彩を放つというだけでなく、竹田の全作品の中でも独特の位置を占め、こう言って良ければ、沈黙の極北にある作品群である。竹田自身、今なおこの連作を眺めては手を加えており、竹田にとっても未決着の状態が続いている。
一つの契機は、これらの謄写版の連作の一部、計四十二点が、〇五年の二、三月、名古屋・伏見の白土舎でまとまった形で紹介されたことにある。同画廊では「戦後美術のメモランダム」と題して、戦後美術を検証するシリーズ企画を手掛けており、03年にも、竹田の初期油彩作品を約五十年ぶりに展示した。これらも踏まえ、竹田への聞き取りをもとに50年代の竹田をできるかぎり再現し、併せてその「沈黙」について考えたい。

1 前田耕との出会い

東京の陸軍予科士官学校に通っていた竹田は、敗戦によって、突然、死を現実として覚悟する緊張感から解放され、名古屋へ帰省する。名古屋大理工系への進学を希望するも、旧制第八高等学校(名古屋大教養部)への編入が果たせないなど、焼け野原での再スタートは逆波続きであった。食べるために、木炭自動車の助手、進駐軍のトラック運転手など職を転々とする一方、敗戦直後から、音楽家への夢を持ち、ピアノ、バイオリン、フルートを身につけようとした。文学や詩をよくした友人の影響もあって竹田は文学をも強く憧憬するとともに、他方で同級生が次々と高等学校へ進学していく中で、コンプレックスにも似た焦燥と鬱屈感で内面を満たしていく。竹田が哲学書や文学書を集め耽読したのは、そうした屈折の裏返しでもあった。
竹田を美術に向き合わせたのは折り重なるような偶然の束である。例えば、音楽に憧れていた十九歳の頃、通っていた名古屋市北区の自動車教習所で出会った十歳ほど年長の女性から、技術が必要な音楽よりも美術に進んだ方がいいとそそのかされたことも、そうした偶然の一つ。大学への進学を断念、音楽への挑戦権も失った竹田に残された最後の未踏地が美術だったとも言える。美大へは進まず、陸軍幼年学校当時の恩師で、戦後、昭和高校へ移った光風会の高橋道雄(1908〜79年)を訪ねた竹田は、高橋に石膏デッサンをするよう促され、48年末頃、名古屋・大須の「島本画材」でヴィーナス像の石膏を購入、絵を描き始めた。様々な出会いと偶然が、竹田を絵画の出発地点に立たせたのはこのときだ。
戦後の混乱が続く49年、教員が極端に不足していた状況下で、石膏デッサンを始めて間もなかった竹田が請われて就いた仕事が、中学校の美術助教員だった。自身も美術のとば口に立ったばかりで、何を教えるべきかも分からないまま、それでも竹田は大らかに生徒たちと向き合っていく。前田耕は、竹田が49年から61年まで助教員として勤務していた名古屋市立長良中学校(名古屋市中川区)の最初の教え子の一人だった。このときは、教師と生徒という関係を超える交わりはなく、教師になりたての竹田にとって、前田は、早熟で生意気ゆえに殴った記憶があることを除けば、取り立てて印象が強い生徒ではなかった。
むしろ二人が急接近するのは前田の卒業後の50年である。直接のきっかけは、松蔭高校に進学した前田が、美術好きの友人と一緒に竹田の自宅を訪ねたことだった。竹田の自宅にあった膨大な蔵書を目にした前田がそれに興味を持ち、頻繁に訪れるようになったのである。竹田の自宅を「竹田図書館」と呼び、ほとんど一日置きにやってきては二、三冊の本を持ち帰る前田は、竹田ときってもきれない間柄になったのだ。
大岡信が「おそろしく早熟だった」(注2)と言うように、前田は既に高校時代から詩のグループを作り、同人誌を出すなどしていたものの、青白い文学青年タイプではなく、論理的で時に攻撃的でさえあった。「どうして絵を描くのか」(注3)。そんな前田の青臭いが本質的な問いにも竹田はできる限り誠実に答えようとし、また、前田も竹田の絵のタイトルも考えるなど、二人の間には強い引力が働いていた。前田と竹田の交友は50年から57年頃まで、つまり竹田が二十三から三十歳頃まで、前田が十五から二十二歳頃までのわずか七、八年間だが、深く濃密な関係であった。

2 初期油彩画の展開

48年末に絵を描き始めた竹田は翌49年、同僚教師の紹介で、無所属の日本画家だった堀尾実と出会い、堀尾から、油絵の塗り方など一から指導を受け、自画像を描いている。作品を初めて発表したのは50年の第2回読売アンデパンダン展。このときの「作品1」をみると、ハードエッジの記号的な幾何学形態、バランスのとれた色彩感覚とも、最初の作品とは思えないほどぴたりと決まっている。こうした抽象性は、竹田自身の幾何学への関心の産物だとしても当然、堀尾の影響抜きでは語れない。竹田は、長谷川三郎がこれらの作品を美術雑誌で評価してくれたことを知り同年、長谷川がいた自由美術協会展(第14回)にも初出品。翌51年にも読売アンデパンダン展、自由美術協会展に参加する。この後描かれた「パンチュールE」「同F」(ともに52年)になると、「作品1」と比べ画面が複雑になり、メカニカルな雰囲気と叙情が加わっている。
竹田が52年、自由美術協会から美術文化協会に移った背景には、その前年に美術文化協会に日本画部を作った堀尾に誘われたという人間関係だけでなく、竹田自身のシュルレアリスムへの関心の高まりもあった。53年頃までの作品は、メカニカルな抽象性がユーモラスに擬人化されたように描かれている。もっとも織機などの構造や動き方に惹かれていた竹田は、機械のようだが同時に人間の動きの延長のような温かさを失っていない、プリミティブなイメージを紡いでいたのであって、テクノロジーに共感したわけではなかった。
とりわけシュルレアリスムなどの思想に傾倒していた前田との交流や、美術文化協会に転籍した影響もあって、竹田の作品にシュルレアリスム的な傾向が強まっている点は見逃せない(注4)。54年の第14回美術文化協会展に出された「所有地」「黙示」になると、機械の穏やかな擬人化というより鳥類か爬虫類のような禍々しい生物的イメージへと変貌している。次第に、自律した絵画を超えて、当時の社会動向に対する、実存としての竹田の抵抗の意思が明確な輪郭を帯びてくるのだ。
こうした社会的リアリズムの傾向は、同年5月に勃発した京都事件後には、一層はっきりとしてくる。京都事件とは、美術文化協会内での主導権を争う内紛で、竹田は堀尾実、水谷勇夫とともに、岡田徹らの一派だと目され、京都の駅頭で古沢岩美のグループに襲撃される。これを機に美術文化協会は分裂、竹田は14回展で早くも会員に推挙されたものの、堀尾、水谷らとともに脱会、55年に「匹亜会」を結成する。参加したのは三人の他に志村礼子、藤田武、加藤直昌である。
戦時体制からの解放気分が徐々に薄れ、相次ぐ労働争議、共産思想の弾圧、冷戦の顕在化に伴う再軍備化、朝鮮戦争特需による独占資本化、自由な美術教育への干渉など、社会の圧力が強まる中、竹田の抵抗的な姿勢は強まっていく。おびただしい数の痩せた人柱が大地を支えるような「弔鐘3」(57年)では、反権力的なものが極限化し、「告発者」(58年)では、民衆の顔がつぶされたように積み重なり物体化し、見る者を射抜くように叫んでいる。53年頃までの明るさが嘘のように、色彩も暗く重くなった。「審問」(58年)に至ると、自由を奪われた男の頭上に大砲が載っている。60年安保へ流れ込んでいった社会の反映であろうか、59年頃の作品では、暗澹たる色彩の海に顔か目らしきものがこちらを見据えるだけである。現在、確認できる50年代の油彩作品は計四十一点。55年に結成された匹亜会は、東京の村松画廊を中心に展示を続けたものの、水谷勇夫が会から飛び出したこともあって、60年前後には自然散会する。 

3 謄写版モノタイプの成立と前田耕の死

続いて、本稿の中核をなす謄写版のモノタイプ・シリーズについて触れる。油彩中心に展開された50年代の中で、57年夏の二、三週間だけ集中的に制作されたという特異な謄写版版画。その制作に示唆を与えたのは、他ならぬ前田耕である。57年と言えば、中学に勤めて約八年が過ぎ、竹田は三十歳で、前田は二十二歳になっている。竹田の自宅には、学校から持ち帰った謄写版印刷機があり、竹田自身が学校業務や美術活動の会報作成に使っていた。竹田の記憶では、竹田宅を訪れた前田が、たまたま印刷機に目を向け、そこに残っていたわら半紙のインクの滲みに「これは面白いじゃないか」と感嘆の声を挙げたことが、竹田が意識的に謄写版による作品に取り組むことになった直接の契機である。前田が幻視的に感得した滲みの美しさに、竹田も素直に共感し、触発されのだと言っていい。
通称ガリ版刷りとも言われる謄写版は、蝋引きの原紙をヤスリ板の上で引っかいてから、それを装置に張り付け、上からインクをローラーで伸ばすことによって文字やイメージを印刷する仕組み。竹田は手や体、顔がインクまみれになることも厭わず、頭より先に手足を動かした。それは、何か具象的なイメージの定着を図るものではなく、版構造への介入を試みながら滲みのような不意なる形象の出現を待つ実験のようなものだったと言えよう。しわくちゃにした新聞紙や畳を下敷きに、フロッタージュのように複雑な線を浮き上がらせる一方、原紙に安全カミソリで傷を付けたり、原紙に糸屑などを載せたり、手当たり次第に様々な実験を繰り返した。使用済みの原紙の文字を転写する、原紙自体をしわくちゃにする、ローラーをわら半紙の上で直接回転させスクリーンの絹目を擦りつける、等々。シュルレアリスムのデカルコマニーやフロッタージュを基本に据えながら、雑多な版技法を組み合わせ、テンションに任せて試行を繰り返しイメージを加算させた。
作品群を見ると、こうした制作過程を裏付けるかのように、硬軟の多様な痕跡が繊細に、複雑に重層的に現れている。光、闇、裂け目、粒子、線、面・・・渾然とした仮象のような宇宙の諸相なのか、その、読み解くべき意味作用を欠いた完全なる沈黙の中には竹田のかすかな身体感覚、意思と自由な空想、そして生の震えが刻印されていて、陸軍士官として死を予定された人間が戦後の激変下、大きな変節を余儀なくされながらも、かろうじてなしえた自己存在の結晶とでもいうべき達成を見て取れる。謄写版作品は、白土舎の土崎正彦氏が確認した数で413点に上る。79年、竹田自身によって再発見されるまで発表されたことはなく、86年にごく一部が名古屋市内で展示されたのを除けば、05年の白土舎での公開が初めての体系的な紹介である。
竹田は当初、これらの作品を油絵の下絵と考え、独立したモノタイプ作品という意識は持っていなかった。謄写版作品が制作された57年、竹田は既に美術文化協会を離れ、その二年前に堀尾実、水谷勇夫らと作った、反画壇標榜の前衛グループ「匹亜会」を活動舞台にしていた。シュルレアリスムへの展開後であったことを考えると、通常の使用法を超えて応用した謄写版版画の思いがけない出現性と不測のイメージの生起が好都合と判断したのだろう。しかし、実際には油絵では謄写版のような微妙な調子が再現できず、竹田はこれらの作品をまとめて段ボール箱に入れ、封印してしまった。
他方、こうした竹田の制作への没頭からほどなく、前田は57、58年頃に失踪、60年頃までに北海道での死が確認される。失踪先から遺書を受け取った竹田は、悲壮感なく、内容も冷静な文面に「こんな心情で人間は死ねるものなのか」と訝り、前田の生存を信じ続けたという。前田には、これに先だって宮崎の日南海岸まで失踪した折、石川淳の『黄金伝説』を読んで「死ぬのがおかしくなった」と言って平然と帰ってきた前例もあった。とはいえ二度目の失踪では、前田は竹田宅の机の下の奥にこっそり自分の日記を遺し、竹田に託した上で名古屋を離れている。既に死を決断していたのだろう(注5)。

4 制作中止と61年以後の沈黙について

竹田は60年から61年までの期間に、木工ボンドを使った自動デッサンのアクションペインティングに集中し、これを最後に一切の制作を打ち切る。60年までの油彩は、幾何学的な構成やシュルレアリスムを要素としながら、外界との関係の中でリアリズム性を断ち切ることなく制作していたのに、アクションペインティングでは一転、運動の中に自己を投棄するオートマチスムへと転向したのだ。白色の半液体ボンドを床置きしたキャンバスに塗り、ボンドが乾くまでの短時間に即興で描くというこの作品では、描いている間は、ボンドの下に隠れたドローイングの軌跡を見ることはできない。いわば脳内にのみ自分のアクションの残映を残しながら、スピーディーに線を引いていく。行為が続くうちは瞬間が瞬間を生起させるのみだが、ボンドが乾いて透明になると、意識に左右されない、「私」を超えた自動デッサンが成立する・・・竹田は、これを約二十点制作した後、すなわちリアリズムから、社会性への主体性を捨象したオートマティスムに到達したのち、次の作品展開が困難になってしまう。
竹田が61年、旧・愛知県美術館での個展を最後に突如隠遁した理由としては、こうした作品上の行き詰まりが大きな位置を占めていると考えられるものの、そこには様々な要因が複合的に絡まっていると見ていいだろう。外的原因、つまり竹田が口にしたがらない極めて個人的な人間不信に端を発した画壇への絶望もあったであろうし、前田の死も竹田にとっては計り知れない喪失であった。60年安保後の虚脱感、高度成長と安保体制下での単線的な安定路線、民主主義の変質、経済成長と価値観の激変、美術環境の変化と匹亜会の消滅、教育現場での抑圧・・・これらに押し潰されたのか、61年、竹田は十二年間勤めた長良中学校も自主退職。それ以後は、好きな海で魚釣りするなどして外部世界との縁を絶つ。69年には、自宅(名古屋市中川区愛知町)から五分ほどの同澄池町に喫茶店「ラ・メール」を開店、コーヒーと紅茶、カレーライスという限定したメニューで営業を始めたる。以後、ほとんど私的な営為として小さな画用紙に鉛筆、ペン、クレヨン、水彩絵の具など、身近な画材で描き、写真のコラージュなどを試みる他は、表だった活動を停止する。

5 結びにかえて

57年に封印した謄写版の作品群を79年、再び目にした竹田は、それに驚き魅了された。それは、かつて自分が遺棄したものが、「作品」として、二十二年前の実存というささやかな痕跡とともに回帰してきたような邂逅であったろう。二十二年という沈黙の時間が作品を蘇生させたのはなぜだろうか。79年、竹田はこれらの作品を台紙に張って補強。その後、順次トリミングをしマットを付け、そのほとんどに「57ー79」というサインを記した。制作年である57年と再発見した79年を明確にするためである。これらの謄写版版画の一部が名古屋の木村書房、アートギャラリー小森で展示された86年、竹田は自ら作品タイトルを、前田耕にちなんで「Kへのオマージュ」とし、その一部には「K1」「K2」「K3」・・・とナンバリングした。その後、05年の白土舎での展示を前に、土崎氏が、確認した413枚のサイズ、写真などのデータを取っている。
61年、まだ三十四歳という若さで美術界と絶縁し、全く異なる空間と時間軸に自身の生を移し替えたゆえに、極めてまれなケースとして、竹田の50年代の作品は手つかずの状態で残っていた。50年代という、分裂し、引き裂かれた時代を手探りながら濃密に歩んだ竹田は、近づいてくる反芸術や概念芸術などの動向を予感しながら、激風を体全体で受け止め、静かに転回する。単体のタブローの限界から河原温がメキシコへ旅立ったのが59年であったことを思えば、竹田はそうした選択肢を一切持たず、美術界にとどまることも、海外へ向かうこともなく、名古屋でひっそり暮らしながら、このうえなく潔く、消えた。抵抗する実存を静かに刻印した50年代の沈黙と60年代以降の生き方としての沈黙。二重の沈黙が、50年代の竹田を地下に沈めた。今、その作品群を見直すことは決して無駄ではない。
 本稿は芸術批評誌「REAR」(2005年10号)に掲載されたものに加筆修正したものです。

(注1)今回は、前田の年譜を調査、確認することはできなかった。前田についての唯一の評論と言っていい大岡信の「前田耕 行方不明の詩人」(初出は『ユリイカ』60年8月号)によると、前田は57年頃失踪したことになる。所在不明のまま60年頃、大岡は竹田から「自殺したらしい」と聞いている。
(注2)同上論文
(注3)同上論文によれば、前田は詩の成立基盤への意識の在り方自体を徹底的に突き詰めており、画家の竹田に対しても絵画の成立基盤、画家の存在基盤について質問したのだと考えられる。
(注4)前田の詩集『目撃 炎と屍による組曲』(55年)には、A・ランボーの「『我』とは他のものである」が巻頭に引用されている。大岡は前掲論文で、このことに触れた後、前田について「シュルレアリスム絵画から多くの示唆と掲示を受けているようにみえる」と言及。当然、前田と深い交流を重ねた竹田にもシュルレアリスムの影響は強かったであろう。
(注5)日記、あるいは覚え書きを集めたノート類が竹田に遺された。これらは一時大岡信に渡った。

その他の主な参考文献は、『匹亜2』(59年)、山田諭「展評 竹田大助初期油彩展」(04年、名古屋市美術館『アートペーパー第60号』掲載)、三頭谷鷹史「化石の美術神話 名古屋42」(『朝日新聞』2000年3月4日夕刊)、木方幹人「沈黙の作品群 竹田大助の世界」(86年)、大岡信「竹田大助への手紙」(同)、目黒区美術館『1953年ライトアップー新しい戦後美術像が見えてきた』(96年)、針生一郎『戦後美術盛衰史』(79年)、名古屋市美術館『戦後日本のリアリズム1945ー1960』(98年)など。

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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