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瀬戸内国際芸術祭2019 ①男木島 遠藤利克《Trieb-家》

 2010年以来、4回目となる瀬戸内国際芸術祭。男木島では、ベネチア・ビエンナーレなど国際展常連のドイツのアーティスト、グレゴール・シュナイダーによる、焼けて真っ黒に炭化した家が「死の世界」を見せながら、真っ黒な立木に芽吹いた薄緑が未来の再生の予兆をかすかに象徴していた。
 その近くの廃墟の家では、岐阜県高山市出身の遠藤利克が水を使った作品で殺伐とした存在感を見せていた。廃墟の中に歩を進めると、天井から床の穴に向かって大量の水が激しく落下している。止まることのない垂直に落ちる水は泥で濁り、柱のように確固とした力となって、朽ち果てた空間の中で不穏な情景を突きつけていた。水を重要な素材としてきた、いかにも遠藤らしい重々しい作品である。そして、フロイトの欲動を意味する《Trieb》は、遠藤が一貫してこだわってきた主題だ。
 遠藤が水を使う場合、2003 年の「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ 2003」などでの封印した、見えない大量の静止した水の塊を想像力によって喚起させる作品と、2006年に富山県入善町の下山芸術の森発電所美術館での個展で見せた落下する、運動体としての水がある。遠藤が水を使うとき、それは清冽な水のイメージでなく、暴力的な水であると同時に観念的である。

 今回の場合、朽ち果てた家の中で水が落下するため、災害を思い起こすこともできるものの、むしろ物語性をさえ寄せ付けない直截的な存在、神経を逆撫でする水を感じさせた。水は透明で生命を誕生させ、命にとって欠くことのできないものである一方、土砂や汚泥、廃棄物と一緒になると、不快で陰湿で、人を苦しめ、死に至らしめるものである。太古の人間まで遡る考古学的な想像力を喚起させてきた遠藤だが、同時に、現代の病巣や社会構造、精神性までも射抜く力を持っている。ここで想起したのは、近代に根を持ち、現代において取り残されて過疎によって廃墟とならざるをえなかった日本の来し方と日本人の精神性である。それは、美しい瀬戸内の島々という幻想をも打ち破る。

 遠藤が水を使ったのは、彫刻の素材として最も不適切だと考えたからだ。1970年代後半から、水を使った作品を東京のときわ画廊などで発表。転機となったのは、78年、埼玉県所沢市であった所沢野外美術展で、初めて水を考古遺物のように埋めた。ここで水は遠藤にとって単なる物質ではなく、古代からの文化史的な文脈、象徴性をも背負わされたものになった。つまり、水の彫刻によって人間そのものの歴史的、社会的文脈に迫っていくのである。そして、汚れた水が垂直に柱のように落下する今回の作品のような垂直的な力は遠藤の作品で極めて重要な意味を持っている(詳細は、過去の遠藤の講演記録の記事「水と円環—遠藤利克さんが語る初期作品」)。
 この完全なる廃墟の木造家屋に、家族の団らんや生の記憶を呼び覚ますことは困難である。崩れゆくであろう、この家は私たちの見えない時間で、どんな家族の歴史と島の情景を映してきたのであろうか。廃墟へ落下し続ける水の力は、命をはぐくむ水の両義性を打ち消してしまうほどおぞましく、瀬戸内に浮かぶ美しき島とは裏腹に、不在性を強く押し出してくる。だが、この紛れもないリアリティーには死と同時にエロス的な反転衝動の萌芽もあるのである。

グレゴール・シュナイダー「未知の作品2019」
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遠藤利克「Trieb-家」
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