名古屋のカルチャーWEBマガジン「アウターモーストナゴヤ」では、レビュー、リポート、トピックスなどを掲載します

水と円環—遠藤利克さんが語る初期作品

 岐阜県高山市出身の彫刻家、遠藤利克さんの「平成十八年度芸術選奨文部科学大臣賞」受賞を記念する講演会が二〇〇七年九月二十九日、名古屋市の名鉄ニューグランドホテルで開かれた。主催は、遠藤さんの母校である名古屋造形大学・短大(遠藤さんは、名古屋造形芸術短大彫刻科を一九七二年に卒業)の関係者らでつくる実行委員会と、名古屋造形同窓会。講演の中で、遠藤さんは、短大を出て、東京に転居後、手探りのまま作品制作を始めていった最初期の模索について振り返った。
遠藤さんは一九七二年、同短大卒業後、半年ほど名古屋でアルバイトをしながら過ごした後、上京した。当初、東京で制作拠点となるアトリエはなく、とにかく制作できる場所を確保しようとBゼミや美学校を訪ねたが、「制作場所はない」と、失望させる言葉が返ってくるだけだった。それでも李禹煥や菅木志雄、高山登、原口典之ら、(広義の)「もの派」が盛んに作品を発表していた東京で、毎週のように画廊通いを続けた——遠藤さんの上京当時はおよそこんな様子だったようだ。
何から始めていいのかさえ分からず、最初に試みたのはパフォーマンスのようなものだったという。東京で知り合った友人と一緒に、街頭を行き交う人達にただ白紙を配る。確信があったわけではないが、文字が書かれる前の白紙を他者に手渡すことで、言葉を介さない、人と人とのコミュニケーションの原初段階に立ち返ることができるかもしれないと考えたという。物事をつきつめることで、できる限り意味をそぎ落としたところから始めるという姿勢には、当時の美術思潮の影響もあったと思われる。
遠藤さんが当初、自分の作品に「水」を使ったのは、積極的に水に何らかの意味を見いだしたというより、美術作品、彫刻の素材として最も不適切だと思われる水を敢えて使うことで、面白い展開ができないかと考えたことに因るという。素材として厄介な水を使うことを自分に課すこと。一見無邪気とも思えるその試みはある意味で、彫刻素材として最もふさわしくないものを美術作品として提示するという、現代芸術の逆説の鉄則を踏まえていたとも言える。一九七〇年代後半、東京・神田のときわ画廊での個展で、日々汚れていく床の汚れ、ギャラリーの記憶を水の中に蓄積していくような仕事を発表し、以後、▽コピー用紙に水を塗って、紙の縮みの痕跡を提示する▽コンクリートブロックを画廊に並べ、水で濡らしてその乾湿の変化を繰り返す▽床に置いた紙を水浸しにし、乾燥後に展示する▽床に敷いたビニールの上にガラスを置き、その上や両者の間に水を浸透させ、水、ガラス、ビニールという透明な三種類の物質を共存させる——など、水を他の物質と絡ませる方法で試行錯誤を繰り返す。
続いて試みられた以下のような作品は、その後の作品展開につながる過渡期的なものとも言える。ガラス管に水を吸い込ませ、画廊の壁に水平に架けて展示する(毛細管現象で水が流れ出ていかない)。あるいは、水を満たしたビーカーを、画廊の四隅の腰板部分に載せたガラス板の上に置く。これらはいずれも、少量の水の質量の影響で空間に微妙なゆがみや、たわみが生じるような装置だった。大きな転機となったのは、七八年、埼玉県所沢市であった所沢野外美術展で、イチョウの木の下に穴を掘り、ビーカーに入れた水を土中に埋め込んだ作品だ。このときの感覚を遠藤さんはこう述懐する。それまでは、水という素材を何とか現代美術の文脈に導き入れることができないかと考えたのに対し、このとき、水を(考古遺物のように)埋めることで、水を考古学的な意味で発掘したような感じがした。つまり、水は単なる物理的なH2Oではなく、さまざまな宗教的、民族的、人類学的な意味性など、古代からの文化史的な文脈、象徴性を背負わされたものであると。こうした文脈で水を再発見したことは、遠藤さんにとって決定的なものとなる。
この体験を遠藤さんは次のように敷延してみせた。現代美術の中で彫刻を作るということは、一方で、「自己言及性の彫刻」を展開していくこと、つまり、彫刻史の中で新しい彫刻を定義するために彫刻を作る「彫刻論—彫刻」のようなものに立ち向かっていくことであると言えるが、それとは別に、「自己演繹性の彫刻」もあるのではないか、と。「自己演繹性の彫刻」とは、より人間の文化史的なレベルに焦点を合わせた文脈であり、「自己言及性の彫刻」のように彫刻の純度を高めていく方法ではなく、むしろ、彫刻という手段を使いながら、人間の文脈に迫っていく方向である。「自己言及性の彫刻」の極北が、ドナルド・ジャッドのようなミニマルアートだとすれば、この文化史的な文脈の水を発見したとき、遠藤さんには、これらとは反対の方向に自分が行きそうな直感があったという。
遠藤さんの説明では、この反対の方向をさらに行けば、村上隆などの日本のニューポップ、すなわちフィギュアに近くなる。ジャッドと村上的なフィギュアは対極的なもので、それをもっと外れていくと、サブカルチャーの世界に入る。そういう両極の間にさまざまな彫刻があって、その中程に、自己言及性と、社会や人間などの文脈の両方を視野に入れた彫刻の沃野があるということになる。遠藤さんは自分のポジションについて、真ん中よりやや「自己演繹性」寄りだという。
水を湛えたビーカーを土の中に埋めた作品はその後、さまざまな展開を見せ、美術館の床に土をへんぺいな円柱形に盛り上げ、その真ん中に水を置いた作品や、水の入ったビーカーを円環状に土中に埋め込んだ作品などを生み出す。真っ黒に塗装された木材の円柱を展示室に円環状に並べた作品(一九八三年)では、円柱の上部を椀状に掘って水を湛えさせている。この作品を制作したとき、そのサークルの中心に入り込んだ遠藤さんは、垂直的に貫くような力、円環が身体感覚に与える属性のような力を感じたという。このことが、その後の一連の円環の作品に確信を与える大きな契機となった。
遠藤さんが続いて言い及んだのは、彼の「水」の作品の根幹に触れる部分とも言える故郷・高山市の飛騨国分寺にある五重塔の塔心礎石についてだった。遠藤さんが子どものころから遊び場としていたという国分寺の、この塔心礎石の上面には、くぼみがあり、いつも水が溜まっている。作品を展開していく中で、この礎石を思い起こした遠藤さんは、礎石の下に少女が埋められたという人身御供の伝説とともに、死と垂直的な力、水が結びついたこの礎石への思いにかられ、その歴史など調べていったという。その結果、実際には、人身御供の伝説はこの国分寺ではなく、近くの飛騨松倉城に伝わるものであることが分かるのだが、遠藤さんにとってこの礎石が引きつける力は変わらなかったようだ(この礎石については、千葉成夫「未生の日本美術史」に詳しい)。
さらに、遠藤さんは、自身の円環作品と類似性があるとして、能登半島にある縄文遺跡・真脇遺跡で発見された、円柱がサークル形に並ぶ柱列遺跡を紹介する。この遺跡についても実際に現地まで赴いて調べたという。真脇遺跡の円柱サークルの下にはイルカの骨が大量に発見されており、この場所はイルカ塚であると同時に、イルカの死が献上された祭祀的な場とも考えられるとして、遠藤さんにはここを、聖なる場所と死、天と地をつなぐ共同体の中の重要な場としてとらえる。
遠藤さんがここで言いたかったのは、遠藤さん自身が作品の素材として見いだした水の文化史的文脈、あるいは円環の中心に立ったときに感じられた垂直的な力が、飛騨国分寺の塔心礎石や、真脇遺跡の柱列遺跡におけるような、古代人も感じていたであろう、垂直の時空間が成立する宗教的な場、生(聖)と死の交錯する場に通じるのではないかという、ことであろう。その後、この垂直的な力と、生死の磁場を巡って、円環の作品が次々発表されていくことになる。
 「REAR」(2008年18号)に掲載した原稿に加筆修正した。

最新情報をチェックしよう!