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大島ハンセン病療養所の「ろっぽうやき」 やさしい美術プロジェクト

 島全体が国立のハンセン病療養所「大島青松園」になっている瀬戸内海の大島で、名古屋造形大教授の高橋伸行さんが代表を務める「やさしい美術プロジェクト」が立ち上げた交流スペース「カフェ・シヨル」。その設立時期に関わるとっておきの話を、2019年9月22日に名古屋市中区橘の崇覚寺であった「なごや寺町アートプロジェクト」の関連イベント、茶話会「ろっぽうやきとハンセン病療養所」(講師・高橋伸行さん、泉麻衣子さん)で聞いた。

 高橋さんらの「やさしい美術プロジェクト」は瀬戸内国際芸術祭初回となる2010年から、大島で芸術祭に参加。今年も新しい展示に取り組んでいる(記事は、「瀬戸内国際芸術祭2019 ②大島 やさしい美術プロジェクト」)。今回、紹介するのは、プロジェクトの初期に、入所者の皆さんの記憶に基づき、再現した和菓子「ろっぽうやき」の物語である。ろっぽうやきは現在も、プロジェクトが設営・運営に関わった島内のカフェ・シヨルで提供されている。再現で主導的な役割を果たしたのは「やさしい美術プロジェクト」の一員で愛知県在住の泉麻衣子さんである。

やさしい美術プロジェクト
高橋さん(右)と泉さん

 高橋さんが大島に行くようになったのが2007年。元患者の人たちと交流する中で、芸術祭に向けた構想を温めていった。泉さんも2008年から月に1回、島に通うようになった。高橋さんが入所者の皆さんに話を聞くと、「ずっと大島で暮らしたい」「大島のイメージを変え、人が集まる場所にしたい」「自分が大島で生きてきた証しを残したい」など、さまざまな声が聞かれた。高橋さんは、アーティストとして、これらの声の橋渡しができないかと活動を開始。ハンセン病をテーマに作品をつくるアートプロジェクトというより、島の人たちの声を残したい、伝えたいとの思いから、島と島の外を柔らかにつなぐプロジェクトして{つながりの家}という取り組みを始める。

 入所者の人は、「この島には、何も見せるものがないよ」と言うことが多かった。高橋さんの活動は、まず、島の中で密かに残されているもの、受け継がれているものはないかを入所者の中から探るところから始まった。そうして構想された{つながりの家}は、誰が来ても立ち寄れる場所としての交流拠点「カフェ・シヨル」、来島した人に島を知ってもらうための「ガイドツアー」、島に密かに残されたきたものを展示する「GALLERY15」の3パートで進められた。

やさしい美術プロジェクト
{つながりの家}の構想図

 その中で、泉さんらが2010年6月にオープンさせて(1回目の瀬戸内国際芸術祭は7月に開幕)、3年ほど関わったのが、「カフェ・シヨル」である。当初は、あまり使われていなかった島内の面会人宿泊所をカフェに改装した(現在は取り壊され、カフェは社会交流会館に移転)。

 泉さんは1年の半分ほど島に滞在。島の土から焼き物の粘土を取って、カフェで使う陶器を制作するなど、開店前から、さまざまな準備に入った。入所者が取り組む野菜の栽培にも加わるなど、島で採れる恵みを入所者、ボランティアが一緒に収穫・加工して喜びを分かち合った。泉さんは「島の人たちが育てた野菜や果物がとてもおいしく、自分たちだけで食べているのはもったいないという気持ちになった」と振り返る。入所者は、外から島に訪れた人にお茶を入れても、手をつけてもらえなかった過去がある。泉さんは、そんな入所者の人が丁寧に心を込めて作ったおいしい野菜や果物など島の恵みをカフェで多くの人に知ってほしい、食べてもらいたいと考えた。

 活動を続けながら、島の人から話を聞く中で話題に上ったのが素朴な焼き饅頭「ろっぽうやき」だった。作り方としては、まず餡子を丸め、それを小麦粉と卵で作った生地の上に載せて包んでいく。最初は丸い団子だが、銅板の上に並べて、転がしながら焼いていくうちに6面が焼かれ立方体になるので、「ろっぽうやき」(六方焼)。北陸や近畿地方に多い。

 島内で「ろっぽうやき」が作られたのは、昭和の中頃から昭和50年代ごろまで。当時、和菓子職人の修業経験のある入所者がいたからで、その人が高齢になった昭和50年代には、作られなくなった。島の外から菓子が入ってくることがあまりなく、島外へ買い物に行くこともできなかった時代。島の中でおいしいお菓子を食べられることは、入所者にとっての楽しみだったらしく、「ろっぽうやき」の記憶を語る人は多くいた。大島でお菓子といえば、「ろっぽうやき」というぐらいに「おいしかった」という記憶が多くの入所者に共有されていたのである。もっとも、高橋さんや泉さんが島を訪ねた頃は、「ろっぽうやき」は、入所者の記憶の底に沈潜していながら、30年以上、口にしていない食べ物になっていた。泉さんは、そんなにおいしかったのに、何十年も途切れてしまったのなら、「自分も食べてみたい、作りたい」と再現を決意したのである。

 入所者の中には、島に来る前にさまざまな職業をしていた人がいた。島で「ろっぽうやき」を作っていた和菓子職人もその一人である。入所前には、大阪の和菓子屋で丁稚奉公をして修業していた。ハンセン病の宣告を受けて島に来てからは、島の人たちのために「ろっぽうやき」を作り、それ以外にも、島での結婚式の紅白饅頭や、法事の饅頭も作っていた。

 泉さんは、「ろっぽうやき」は、入所者の人たちが島で生きた記憶であるとともに、国の強制隔離政策によって、それまでの人生を断ち切られた状況下でも、同じ患者の人たちのためにおいしい和菓子を作り続け、一人の和菓子職人として生きた人間の強さの象徴だと考えた。「突然、積み上げてきた人生が断たれ、一生、島から出ることができなくなっても、お菓子を作り続けた人がいた、その和菓子をおいしく食べた人たちがいた。『ろっぽうやき』は、和菓子職人の方がお菓子を作り続けることで、人とつながろうとした証しだったと思う」と泉さんは再現する重みを感じた。「ろっぽうやき」は当時、瀬戸内地域にある三つの国立ハンセン病療養所の交流会でも大島名物のお土産として評判になるなど、大島の入所者の誇りになっていた。中途半端な再現は許されなかった。

 泉さんは入所者の人たちに作り方や形、味を聞き、和菓子の再現に挑戦したが、高橋さんや泉さんの活動の意味を理解してくれていたがゆえに、入所者の方からは、「こんなに生地はパサパサじゃなかった」「形はもっときれいだった」などと厳しい意見もあった。泉さんは、もともと料理が得意でなく、和菓子作りの経験もなかった。入所者の声と自分の舌だけが頼りだった。

 再現が行き詰まり、途方にくれた泉さんは、あるとき、参考になればと六方焼を売っている店を探したが、大島に近い高松市にはなかった。大島の和菓子職人が修業した土地で、自分の出身地でもあった大阪には、店頭に六方焼を置いていている和菓子店が多くあった。泉さんは、その中の1つの扉を叩いて「作るところを見せてほしい」と頼み込んだ。誠意に打たれた和菓子店が六方焼を焼かせてくれ、レシピも書いて渡してくれたことから、状況が好転。もう一度、レシピを参考に入所者の人の声を聞きながら、ピントの微調整をするような作業を繰り返し、大島の「ろっぽうやき」が再現された。

やさしい美術プロジェクト
大島に開設した当初の「カフェ・シヨル」

 大島で食べられる「ろっぽうやき」には、「おかしのはなし」という焼印がある。「はなし」という焼印は、ろっぽうやきを再現するため、入所者から聞いた島での暮らしの記憶や思いがこの小さなお菓子に詰まっているという、泉さんのメッセージでもある。このお菓子には、辛苦の人生の中で入所者の心を和ませた甘い和菓子にまつわる入所者の話が凝縮しているのだ。

 「カフェ・シヨル」は2013年12月まで、泉さんら2人で切り盛りし、その後、瀬戸内国際芸術祭を支えるボランティアサポーター「こえび隊」に引き継がれた。現在は、「ろっぽうやき」は、泉さんの作り方を引き継ぐ豊島の「島キッチン」で作られている。

 「入所者の皆さんからは、島でのつらい体験や家族との別離など悲しい話を聞くことが多く、それを自分がいくら想像しても、どうしても届かない感触があった。でも、『ろっぽうやき』の話になると、入所者の人も柔らかい表情になった。その味を共有できたこと、島の人と共感し合えたことで、つながりができたと思えた」と、泉さんは話している。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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