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大﨑のぶゆき展「漂白する、現像する、そして共有する」ガレリア・フィナルテ(名古屋)で2019年7月13日-8月3日

ガレリア・フィナルテ(名古屋) 2019年7月13日〜8月3日

 東日本大震災が起きた後、津波の被害を受けた地域では、波にさらわれたドロドロの家族のアルバム写真を必死に捜し、水で流す姿がテレビで放映された。家や家族を失った時、幸福な記憶のよすがとなるのがアルバムの写真。思い出の写真を水できれいにするボランティア活動も新聞などで伝えられた。写真という仮象のイメージは、その人の記憶にとって欠かせないディテールを提示し、普段は脳裏に眠っている記憶を呼び覚ましてくれる。もう失われてしまったが、確実に過去に存在したものを写真は写している。

 もっとも、アルバム写真は、ふとしたきっかけか、あるいは大災害や愛する人の喪失など、何かよほどの理由がなければ、忙しい日常に見ることは少ない、東日本大震災での家族写真にまつわるエピソードは、記憶のかけがえのない唯一性と、普段は見ないでアルバムの中にしまい込んでいるような無意識性、言い換えると、抽象性を物語っているのではないか。

 海水浴場の水着姿の男性か、3人ほどの群像か。あるいは車の前でポーズを決めている2人組、野球のバッティングをしている少年、スキーをしている親子。表面の絵の具は溶け出しているので、もちろん、それはそう見えたとしか言いようがない曖昧なイメージである。それらは、インスタントカメラで撮影したという小品も、Cプリントによる大型の作品も、いずれも《untitled album photo》というタイトルがつけられている。

 これはイメージの消失なのか生起なのか。記憶が失われる過程なのか、それとも記憶が現れてくるところなのか。絵の具が右から左へと流れ、消えていきながらも、イメージが支持体の奥から滲み出てくる予兆もある。絵の具はたゆとうような不確かな手応えしかないのに、それを見ていると過去の記憶、あるいは自分や自分の家族などの写真を想起させる気配を感じる。絵の具が溶け出し、拡散されていくような揺らぎは、マーブルや墨流しのようなしなやかな曲線ではなく、右から左への動感をもつ走査線のようであり、デジタルイメージの印象さえ与える。そして、全くこれまで出合っていない作品なのに懐かしい。

 大﨑(大崎)さんは、他者の記憶をテーマに制作する作家である。愛知で9年ぶりの個展という今回の題材は、自らが教える大学の学生や友人など身の回りの誰かのアルバム写真。これを独自のメディウムを調合した水彩絵の具でアクリル板に描いた後、水槽に沈めて立てかけ、絵の具が溶けて流れていく瞬間を撮影する。

 写真から絵画、水による溶解を経て、写真に再帰するという、媒介物を介入させたプロセスは、版画出身である大﨑さんの出自によるところも大きいのではないか。水による絵の具の流出は、CGアニメーションのようなイメージの動感も与える。デジタル画像の加工でなく、写真のイメージを手わざで描き、その絵の具を水に流すというアナログ的な制作過程が光学的な仮象、あるいはデジタルイメージを印象付けるという逆説的な遷移が面白い。

 他者の思い出の写真が別の人間の奥底の記憶とかすかに触れ合い、見た人の埋もれていた記憶を無限にその人の数だけ浮かび上がらせる。誰かの人生のひとこま、大事な思い出であった残像が、絵の具が溶け出し、曖昧模糊となったイメージ、欠落したイメージ、すなわち忘却されていくことによって、見る人との対話を促し、別の人間の中で過去のイメージや記憶を再生産していく。写真がもつそうしたイメージの連鎖的な編成作用は、イメージの共有性、生の普遍性とともに、記憶というものの不確かさ、恣意性を示してもいるのだろう。

 一方で、インスタント写真は、モノタイプのような記憶の唯一性をも暗示する。大﨑さんの作品は、不確かな記憶の普遍性、偶有性と、その人の記憶の唯一性、アイデンティティーの本質という記憶の両義性のメタファーになっている。人間は忘却を免れず、しかもそれゆえに生きていくことができ、不確かだからこそ、こうしたイメージの共有が記憶の共有、共振を誘う。あるイメージが任意の誰かの記憶に繋がるプロセスの中で、それぞれの記憶の固有性の芯の周りをおぼろげに包む世界も歴史もはなはだ不確かなものだということか。

大﨑のぶゆき展

 会場には、円形の鏡やガラス、自作の半透明のガラスを重ねてギャラリーの壁に立てかけた作品《Observer》もあった。観察者、観測者と題されたこの作品は、鑑賞者や作品を映し込みながら、常に「現在」を捕捉し続けるが、「現在」が絶えず更新されていくことで、「現在」は一瞬で「過去」となり、「未来」がすぐに「現在」になっていく。この作品は、「現在」と「過去」、「未来」を映し続けていくことで、大﨑さんの作品の豊かな時間性を指し示す虚構の目と言えるだろう。今回のシリーズ「無題のアルバム写真」では、他者のアルバム写真がもつ不確かな無名性のイメージ、過去の曖昧な記憶が見る人の記憶に働きかけ、過去、現在、未来へと意識をつないでいく。

ガレリア・フィナルテ「大﨑のぶゆき展」
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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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