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平川典俊個展 Seeking a Light

STANDING PINE(名古屋) 2019年7月13日〜8月10日

 ニューヨークを拠点に既存の制度、慣習に揺さぶりをかける、批評性の強い作風で知られる平川は死や性などのタブー、生理、反動的な社会システムや歴史に感傷を排して果敢に挑み、時に反社会的な挑発さえ孕む作品を展開してきた。こうした作品の傾向は彼が社会学を学び、この世界を冷徹な目で凝視してきた経歴と無縁ではない。作品は、写真や映像、ダンス、インスタレーション、パフォーマンスなどと幅広いが、今回は2つの写真作品の連作が展示された。

 一つは、米同時多発テロから4年後の2005年に制作し、日本初公開となる《Seeking a Light》。1904年の開通以来、市民にとって欠かせない交通インフラになっているニューヨークの地下鉄の駅のホームで密かにカメラを構え、フレームに入ってくる、電車を待つ様々な人種、民族の人々を撮影。併せて、ホームに闇の中から電車の光が接近してくる瞬間も捉えた。今回展示したのは、その11作品のシリーズのうちの5作品で、いずれも電車を待つ人、闇の中の光という2枚の組み写真で展示している。

 平川によると、ニューヨークの地下鉄では当時、まだ電車の到着時刻を知らせる電光掲示がなく、ニューヨーカーたちは電車の到着が予測できないまま、待ち焦がれるように直感と本能で暗いトンネルの奥の闇に視線を向けていた。そうした眼差しと闇の中の光が差し示すものとは何か。

 当時は、9.11直後に制定された愛国者法によって、テロとの戦いを目的に国民の不安を煽り、政府当局の権限が大幅に強化された。平川によると、公共施設で写真を撮影するのが難しくなるなど、テロ撲滅のスローガンによって自由が奪われる状況があった。そうした中、薄暗いホームに黒衣のように立ち、周囲に気づかれないように望遠レンズのカメラを一脚に立てた。そうして、何度か連行され、逮捕寸前になりながらも、人々の表情とトンネルの闇の中の光を撮影したのが、これらの作品である。

 人々が電車を待ち焦がれる表情は、何か自分にとって大切なものが到来することを期待するようにも見え、暗闇の光は、そうした人々の視線の先にあるものとして、神聖なもののように感得される。暗く、決して心地よい空間とはいえない薄汚れた地下鉄の駅は長く居たい場所ではない。自分をどこかの目的地に運んでくれる電車の光は、救いや恩寵のメタフォーとも思える。ホームに立つのが、社会の巨大な力に支配され、社会階層の底流でもがいている一般の人々ゆえか、その表情には、憂いや怖れ、疑念、怯えと不安、労苦とともにある、かそけき生が写り込んでいるように見える。それは、大きな権力構造、愛国者法が自由を抑圧する中で、自分のできる生を精一杯生きる意志のささやかな表れでもある。闇の中の電車の光と、それを待つ人々の表情の対比というイメージは力強く、なんとも美しく見える。

 もう一つのシリーズは、タレント、モデルの南明奈をモノクロ写真で撮影した2014/16の連作「アニマの天分」。和室で、姿見に映った正面または後ろ姿を捉えたショットは窃視のイメージがあり、ビルの屋上で枕を抱いて寝ている姿は不穏な予兆を感じさせる。いずれも離れた位置からロングレンズで撮影したもので、ささやかな官能性がにじむ。

 平川によると、これらの作品は、ユングの「アニマ」「アニムス」の考え方を援用。男性の中の女性性、あるいは女性の中の男性性、それぞれの意識、無意識のねじれや抑圧、男性が男性を、女性が女性を演じること、それを見る男性や女性の眼差しなどを踏まえ、自分の男性性を強く意識しているという南明奈を被写体としたイメージで作品化している。

 撮影は、山梨県北杜市の中村キース・へリング美術館で行われ、「男性的な」南明奈が歌舞伎の女形のように「女性」を演じている姿を遠隔撮影した。和室で撮影された作品は、離れた廊下から姿見に映った南明奈を撮り、ビルの屋上での撮影も数十メートル離れた別のビルから望遠レンズで撮っている。雑誌のグラビア写真のような一見明瞭なイメージが宿すのは、男性/女性という性的なアイデンティティーの所在とその揺らぎ、意識と無意識、性の幻想と倒錯であろう。

平川典俊展会場(スタンディングポイント)
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