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ナオ・カワノ・フジイ “NAOSCOPE”  ギャラリーハム(名古屋)で2025年10月4日-11月8日に開催

Gallery HAM(名古屋) 2025年10月4日〜11月8日

ナオ・カワノ・フジイ

 ナオ・カワノ・フジイさんは1983年、兵庫県生まれ。富山市在住。幼少時から海外で生活し、ドイツのミュンヘン美術アカデミーでファインアート、帰国後、富山ガラス造形研究所でガラス造形を学んでいる。

 ギャラリーハムでは、2017年、2018年、2022年2024年に続いて、5回目の個展である。筆者は2022年以降の展示を見ている。また2025年夏、富山県砺波市のGallery 無量で開催された個展も訪れることができた。

 多くの平面作品では、カラフルな線が密集してはいまわり、昆虫などの生き物や植物などがドローイングとして描かれている。植物や昆虫、人間の顔がさまざまに変奏されながらモチーフとして登場し、直近のGallery 無量では、布に描いた顔が床に転がっていたり、作品に植木鉢が使われ、その植物に顔が付けられたりしていた。

 コンセプトを押し出して、制作する作家ではない。自分が、自身の中から出てくることに出合うことがそのまま作品になっている。まだ、変わりそうであるが、これからが楽しみな作家でもある。

 砺波での個展と、今回のハムでの個展で、作家の世界観、これからの方向性が見えてきた気もする。インタビューで聞いた作家の言葉を基に、読み解いてみる。

“NAOSCOPE” 2025年

 彼女は、売る(売れる)ために作品を作っていない。制作は生きることと同義であり、「今日、どうするか」で作品を作っている。コンセプトで作品を作るとは、思考で作ることである。思考とは知識であり、妄想であり、脳のアルゴリズム、その人にとっての意識上の合理性である。

 彼女は違う。思考の隙間からこぼれ出てくる無意識で作品を作っている。その意味では、シュルレアリスムの末裔としての文脈は成り立ち得るのではないか。

 だから、ドローイングが多いのである。彼女のドローイングには、そこに意識が介入することはあっても、概念の輪郭やアルゴリズムの解釈から抜け落ちるもの、ぬるっと自動記述的に体の中から現れるものがある。

 そのとき、自分の中から引き出されてきたものをそのまま描きとめる。彼女の作品は自分の中の知らない部分との出合いである。そのとき、自ら揺さぶられ、世界への問いを深めていく。そうでないなら、人は日々、日常の形式的な脚本を繰り返し再演しながら、漫然と生きてしまうだろう。

 その意味では、彼女の作品はフォーマリズムの対極である。美術の歴史、制度、文脈、潮流は潜在意識としてはあっても、ほとんど関係がない。

 そもそも歴史とか、こう考えたとか、こういう作品なら売れるとか、今のトレンドは、こうであるとか、そういう作品=商品という発想が彼女にはない。

 自分の中から出てきた、そのとき生きている実感がそのまま作品である。その意味では、子育てをして、子供と一緒に歩き、自然に触れ、観察する「経験」が作品に投影されている。

 日常や子供をモチーフにする作家は一定程度いると思うが、彼女はそれとも違う。彼女の作品は、子供や日常生活そのものをモチーフにするものではなく、自分と、他の生き物との関係性が生々しく現れているものだ。

 人間は、脳が異常に発達した、ただの生き物である。自分はただの生き物で、子供も同じ種の別の個体の生き物である。発達した脳で考えたこと、思考、概念、経験、記憶をベースに生きている。

 社会のルール、システム、自分にとっての正義、正しさ、解釈、欲望、妄想で生きようとする。自分が見た世界にとらわれ、どれほど自分の認識が限定的であるかにさえ気づかず、自我を振り回し、判断を誤り、過ちを犯し、人と衝突して失敗する。

 人間の分別智は、相手のことも、自分のことも分かっているつもりでいるが、分かっていない。人間の限界である。だが、分かったつもりになる。だから生きるのが苦しい。

 子供は、もっとやっかいだが、純粋である。子供は、概念や思考、社会のルールで生きていない。故に、子供は大人にとって、自分の思い通りにならない、最も近くにいて、最も分からない他者である。自然、本能だと言ってもいい。大人の人間の脳が考える分別智に対して、世界をありのままに見ている、いわば無分別智である。

 彼女にとって、芸術作品とは、そういう自然や子供と接する中で、自分自身の深奥を掘り起こしていく作業である。

 彼女のドローイング作品では、自在に線が引かれ、色彩が塗られる。多くは植物や昆虫、爬虫類、哺乳類などの生き物らしきものが描かれる。

 子供と出かける道端の植物や森の中の昆虫の姿、形、動き、表情が関係している。彼女はそれらの生き物の「顔」「目」を重視する。

 「顔」とは何か、「目」とは何か。彼女は、昆虫のみならず、植物、一枚の葉っぱにも「顔」や「目」があり、その「目」と自分の目が合うという。

 昆虫も植物も他者であり、「目」は他者の眼差しである。作品にもそうした「顔」「目」が現れている。彼女の作品も「生き物」と同じ他者である。そして、それは、自分の中のドロっとした無意識が投影されている。

 言い換えると、昆虫も植物も、無生物も、作品も、同じ生命のつながりの中にあって、認知された「自分」ではないものである。そこにいわば、自我と無我の関係性が見て取れる。

 彼女はドイツにいた頃、いつも周囲に対して作り笑いをしていて、周囲から「陽気な人」と思われていた。しかし、これは認知された「自分」であって、本当の「自分」ではない。

 人間はそれぞれの中に自分にとっての「世界」を持っているので、他者と完全に同じ世界を見ることはできない。自分の主観と、他者の主観の関係性がある。

 人間は、社会に合わせて自分を演じ、表情を作り、自分なりに世界を解釈し、社会という物語、資本主義という価値観に従属して、生きようとする。自分が鎧を着るような自作自演は一種の防衛反応である。そうすることで、不安、怖れに対応している。

 彼女が昆虫や植物や、あるいは無生物に「顔」「目」を見るのは、人間社会の物語、解釈ではない、より大きな生命のつながりとの関係で、「見る」「見られる」関係を結んでいることを意味している。

 そうした大きな生命のつながりこそが、自我という意識と無意識の相剋から、自分を救い出してくれる無我、自分を超えて自分らしくしてくれる他力である。

 「見る」だけでなく、「見られる」こと、「問う」だけでなく、「問われる」ことで、主客が逆転し、他力によって、逆説的に自分の中から「まだ見ぬ自分」が現れ、自分が更新されるように創造されていく。そういうことを彼女の作品は示しているのではないか。

 それは、国と国、民族と民族、あなたと私、私と社会、人間と他の生き物、植物を分けて考え、差別する全人類、人間社会、人間中心主義への問いかけでもある。

 最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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