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小企画「水谷勇夫と舞踏」展 愛知県美術館

 名古屋を拠点に活動した画家、水谷勇夫さん(1922〜2005年)と、土方巽さん(1928〜1986年)、大野一雄さん(1906〜2010年)らの舞踏(暗黒舞踏)との関わりに焦点を当てた「水谷勇夫と舞踏」展が4月3日〜5月31日、愛知県美術館で開かれている。

 水谷さんが制作した1988年の舞踏公演の舞台美術を再現、貴重な関連資料も展示している。公演は、88年、東京・池袋の西武百貨店にあった実験的スペース「スタジオ200」で初演され、90年に名古屋・七ツ寺共同スタジオで再演された大野さんの舞踏公演「蟲(むし)びらき」。大野さんは、舞踏の創始者とされ、86年に亡くなった土方さんへの追悼の思いを込めた。

 水谷さんは、近代合理主義が抱える問題や、そうした状況から生まれる人間の抑圧をテーマとして取り上げ、自らの絵画を「日本画」と呼ばず、あえて「膠絵」「膠彩画」と呼ぶなど、従来の日本画の枠組みを超えた作品に取り組んだ。絵画に留まらない多彩な活動も展開。1971年には、「行動芸術」と称する「玄界遍路」を始め、公害による環境破壊や微温的な美術への反対の思いから、展示施設を離れ、自然の中や社会的な場に作品を設置するなどパフォーマティブな表現へと自らを奮い立たせた。

水谷勇夫

 そうした試みの延長の1つとして、舞台芸術にも参加。状況劇場の唐十郎さんとも親しく関わり、名古屋公演の際には宿舎を提供するなど支援した。

 舞踏の出発点ともいえる1960年の「土方巽 DANCE EXPERIENCEの会」(東京・第一生命ホール)では舞台美術を担当。このときの舞台美術は、新聞紙をソーセージ状に丸めて壁面に詰め、そこに墨汁や胡粉をまき散らしたものだった。

 水谷さんの舞台美術は、単にダンスの背景として踊りを彩る類のものではなく、「装置は俳優なんだ、俳優は装置なんだ」という主張通り、新聞紙で作ったハリボテを宙吊りにして舞踏手と踊るようにしたり、舞台装置が迫り出して演者を客席に追いやってしまったりと、演出の領域にまで踏み込むものだった。

 水谷さんにとって、舞台美術はダンスや演劇の場面の説明的、補佐的なものではなく、パフォーマンスと対等に主張すべきものだった。水谷さんは、舞踏という新しい表現が勃興する過程で大きな役割を果たしたのである。

 暗黒舞踏は、1950年代末、バレエに代表される西欧のダンスへのアンチテーゼとして、土方巽さんによって創始された。土方巽さんが亡くなった86年は、舞踏が国際的な注目を浴びつつある時期だったという。大野一雄さんは、土方巽さんとともに舞踏の創生を担ったダンサー。80年代から、精力的に海外で公演をし、舞踏の国際化に大きな役割を果たした。

水谷勇夫

 今回の展示では、関係者の手で長年保管されてきた「蟲びらき」の舞台セットや大道具による空間を再現。チラシ、エスキース、メモなど関連する資料も公開した。

 舞台セットは、墨と水、胡粉、膠、木工用ボンドによって制作され、舞台の背景のみならず、上手、下手から観客席の壁面に延びるように配置。制作の様子は、88年8月、公演初日の3日前に西武百貨店屋上で披露された。今回は、当時の公開制作の様子を編集したパフォーマンス映像も展示。大野さんが舞踏を披露する中、アクション・ペインティングのように描く水谷さんは大変エネルギッシュである。

 会場には、七ツ寺共同スタジオでの公演の映像も投影され、舞台の雰囲気が臨場感とともに伝わってくる。

 舞台美術全体のモチーフは抽象的で宇宙的なエネルギーとでもいうような趣。何か再現的な対象物が描かれているわけではない。ただ、一部に「蟲びらき」の主題に合わせ、虫のようなイメージの痕跡も見て取れる。つまり、具象から始まり、次第に宇宙的な抽象性に向かっているような制作過程である。

 展示では、大野さんがこだわったカマキリの紙の造形物を杖の上部に付けた「カマキリの杖」が大量に設置されている。当時の舞台では、観客に持たせることで、客席も舞台美術の空間に取り込むことが意図された。大野さんは、交尾中にメスがオスを食べて栄養を摂取する共食い、すなわち子孫を残す交尾のためのカニバリズムを崇高な愛と捉えた。

水谷勇夫

 舞台で使われたカレイ(魚)の造形物「かれい」は、公演の終盤、客席側上方から舞台へと徐々に移動し、大野さんがダンスをするように激しく絡み合った。カレイは、大野さんの母親が臨終の場で、高熱の中、自分の体の中で泳いでいると言い残したとされる魚。大野さんにとって母親の象徴のような重要な位置付けをもつ。エイ、虫、鳥、あるいは獣のようにも見える不思議な立体で、腹部には花弁、鱗、あるいは羽のようなものが覆うキマイラともいえる存在である。今回の展示に際し発見された「かれい」のドローイングには、「魚蟲鳥獣人」との記述があり、そのことを裏付けている。

 当時の舞台を見たという馬場駿吉さんは会場の展示物を眺めながら「30年前の舞踏公演だけに記憶が薄れていたが、舞台セットを見て、リアルに当時の熱気、舞台の情景がよみがえってきた」と話した。

 水谷さんが土方巽さんに出会ったのはこれまで、1960年、東京・銀座画廊であった水谷さんの個展の会場だとされてきた。今回の展示に際し、新たに1958年に東京・銀座の村松画廊での水谷さんの個展の芳名帳が見つかり、そこに土方巽さんの署名が確認された。直接、言葉を交わしたかどうかはともかく、58年に土方巽さんが水谷さんの作品を見ていたことになる。

 企画を担当した愛知県美術館の主任学芸員、越後谷卓司さんによると、大野一雄さんと愛知芸術文化センターの接点は、1994年。当時あった組織、愛知県文化情報センターがプロデュースした「愛知芸術文化センター・オリジナル映像作品」第4作の担当映像作家にスイスの映画監督、ダニエル・シュミットさんが選ばれ、大野一雄さんにフォーカスした短編作品「KAZUO OHNO」(1995年)を制作した。

 ダニエル・シュミット監督は「今宵かぎりは‥」(72年)、「ラ・パロマ」(74年)など、現実と虚構を行き来し、その境界を曖昧にした夢幻的作品で知られる。94年頃は、日本で歌舞伎俳優、坂東玉三郎さんを追ったドキュメンタリー「書かれた顔」を制作中で、この作品には、大野一雄さんも出演することが決まっていた。大野一雄さんの撮影時間を比較的長く確保することができるとの情報が入り、大野一雄さんの短編作品も制作できるのではないかというアイデアが浮上したのだという。

 なお、筆者は、水谷さんが亡くなる2年ほど前、水谷さんにインタビューし、記事を「REAR」3号(2003年7月)の特集「矛/盾 芸術に何ができるか?」に水谷勇夫インタビュー「なぜ描くか・・・不条理と、創造の源泉について」として掲載した。

水谷勇夫 
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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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