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関根正二展 三重県立美術館 村田眞宏豊田市美術館長が語る魅力

 20歳で生涯を閉じるまで、わずか5年ほどの間に精神性豊かな作品を残した大正時代の画家、関根正二(1899〜1919年)の画業を振り返る過去最大規模の回顧展が、2019年11月23日〜2020年1月19日、津市の三重県立美術館で開かれている。月曜休館(1月13日は開館)、年末年始(12月29日〜1月3日)と1月14日休館。有料。(画像転載禁止)

 生誕120年、没後100年を記念。重要文化財の「信仰の悲しみ」(1918年)の展示は、11月23日〜12月28日。新たに発見された作品などを含む作品約100点、書簡や資料約60点を、河野通勢、伊東深水、村山槐多など、関根に影響を与えた画家、同時代の画家などの作品とともに紹介している。パステルによる「少女」(1919年)は、1919年9月の遺作展に出品された後、行方不明になっていたが、100年ぶりに発見された。他にも作品5点、資料(書簡)4点が新たに見つかり、初公開となった。

関根正二
関根正二「少女」1919(大正8)年 個人蔵

11月30日には、過去に1986年、1999年の2回、関根正二展を企画した豊田市美術館の村田眞宏館長が「放浪、失恋、そして聖地へ 関根正二の世界」と題して講演。命を燃やし、無垢な魂の輝きを幻想的な画面に込めた関根正二について熱く語った。この記事では、村田館長の講演内容を中心に、関根正二の世界を新たな知見とともに紹介する。

 関根は、1899(明治32)年、屋根葺き職人の父と、母の元に現在の福島県白河市に生まれ、幼少時に東京・深川に移り住んだ。近くに住んでいた伊東深水と友達になって、その後、16歳でデビュー。洋画家として二科展に出品し、注目を集めた。村田館長は、3つの作品を中心に、関根正二の作品世界を解き明かした。「死を思う日」(1915年)、「天平美人」(1917年)、「信仰の悲しみ」(1918年)で、これらの作品に、講演タイトル「放浪、失恋、そして聖地へ 関根正二の世界」にある《放浪》《失恋》《聖地》の3つのキーワードを当てはめて説明した。

関根正二
関根正二「死を思う日」1915(大正4)年 福島県立美術館寄託


1 放浪

 関根は、伊東深水の紹介で、東京印刷株式会社の図案部に入った15歳の頃から本格的に絵の勉強を始めた。長屋の6畳1間に家族7人ほどが暮らす生活。その頃、図案部にいた小林専という洋画家から、オスカー・ワイルドやフリードリヒ・ニーチェについて知り、影響を受ける。当時、小林の紹介で野村という不詳の日本画家と出会い、3カ月ほど、一緒に旅に出る。途中から1人となって、孤独を抱えて甲信越方面を放浪。長野市にいた画家、河野通勢と出会い、大きな影響を受けた。1915年10月、第2回二科展に「死を思う日」が入選。この作品は、草のざわめくような筆触に河野からの影響も見て取れる。河野からデューラーや、レンブラント、ダ・ヴィンチなど西洋の巨匠たちの貴重な洋書を見せてもらい、吸収した。村田館長は、ロダンの彫刻などが描かれたインクの素描「暗き内に一点の光あり/永遠の春」(1915年)も紹介。関根が放浪を通じて、内面的に自分を見つめ直し、大きく変貌した経緯を詳しく解説した。

2 失恋

 1915年、二科展に「死を思う日」が入選したとき、ヨーロッパから帰国し44点が特別出品された安井曽太郎の作品を通じて、セザンヌ的な作風の影響を受け、色彩の重要性を認識するようになった。その後、16年後半から17年頃は、模索の時代が続いた。残っている書簡から、16年後半から、17年の夏過ぎごろまで、二科展の会場で出会った喜久子という女性に恋愛感情があって、思うに任せないまま付き合っていた時期があった。手紙をやりとりし、時々会うこともあったようで、喜久子宛ての書簡には、同性愛で投獄されたオスカー・ワイルドが牢獄でパートナーに向けて書いた「獄中記」からの引用があり、さも自分の言葉のように「更に悲哀には、深刻な驚くべき現実性が有る。そして悲哀なる所に聖地が有ります」などと書いた。こうした言葉は、この時点では、まだ関根の中で内面化されていないが、後で非常に重要になってくるという。

 関根は1917年11月、失恋し、喜久子と別れる。12月には、和歌を作っていた友人の村岡黒影を山形に訪ね、1カ月ほどを過ごし制作した。その中の作品に、「天平美人」(屏風)という不思議な絵がある。唐時代の服、髪型で阮咸(げんかん)という楽器を弾く背の高い女性が描かれ、後ろにアーチ状の区画があって、チューリップが装飾的に加えられている。孔雀、樋口一葉の和歌、アザミ、壺も描かれている。アザミは、宙に浮いている不思議な感じで女性に寄り添っているようにも見える。
 関根が、現実とは違う異世界にいるような女性を象徴的に描くのは、これが初めて。この女性には、喜久子のイメージが重ねられていると思われる。樋口一葉の和歌は「朝な朝な対(むか)ふ鏡の影にだに/はづかしきまでやつれぬるかな」というもので、恋人と破局した関根の心境が重ねられている。この屏風には、さらに秘密があって、裏面に390という夥しい数のアザミが描かれている。
 村田館長は、アザミには、特別な意味が込められていたのだろうと指摘。「さらに深読みをすると」とした上で、このアザミについて、デューラーの作品を参照した。デューラーは、手にアザミ(エリンギウム)を持った自画像を婚約者に贈っていて、アザミは愛の象徴である。関根は、河野通勢を通じて、デューラーの絵を知っていた可能性がある。「天平美人」は、それまで実際の女性を写実的に描いていた関根が、失恋を契機に、象徴化された女性、理想像の女性を描くようになる転換点の作品として重要である。

3 聖地へ

 1917年頃から、バーミリオンという朱色を使った作品が現れ、18年以降の特長になっていく。18年は、4月に蓄膿症の手術をし、病院で知り合った田口真咲という女性に恋をするが、二科会の画家、東郷青児に奪われ、またも失恋する。6月には、日比谷公園の松本楼で暴れて取り押さえられ、警察に一晩拘留。新聞には、青年画家が発狂したとの記事が掲載される。精神的に非常に不安定な時期だった。保養のため銚子の姉の家にしばらく滞在した後、肋膜炎にかかる。
 この後、飛躍的に絵が変わり、18年9月の第5回二科展に、「信仰の悲しみ」「姉弟」「自画像」が入選。樗牛賞(新人賞)を受ける。関根が、自分は狂人と言われるが、そうではない。暗示、幻影が現れる。でもまだ、描ききれていないのだと語った記録がある(「みづゑ」164 二科院展号 1918年10月)。

関根正二
関根正二「信仰の悲しみ」1918(大正7)年 大原美術館蔵 重要文化財 展示期間11/23-12/28

 「信仰の悲しみ」は、そのタイトルが付けられる前に「楽しき国土」という原題があったが、友人などから、女性たちが全然楽しそうでないなどと言われ、タイトルを変更した。女性は、何か捧げ物を手に持っているようでもあり、地面は金色に見える。お金がなく、金色の絵の具や金箔が使えず、真鍮の粉で表現したことが最近の調査で分かっている。
 関根は、かつて、喜久子への手紙で、オスカー・ワイルドの言葉を引用して、悲哀に真実があって、悲哀のある所に聖地があるということを書いているが、この作品によって、そのこと、つまり、「悲哀の聖地」(ワイルドの言葉)が内面化され、関根の描くべき主題となってくる。ここでは、関根にとって特別な世界、理想郷を歩く女性が描かれている。
 そして、「信仰の悲しみ」では、まだ描かれていないが、やがて、女性像の後ろに円光を描く作品が現れてくる。「神の祈り」(1918年)では、2人の女性のうち、1人は円光を付け、もう1人は付けておらず地面を指差している。村田館長は、地上的な苦悩、悲しみと、天上的な楽園のような世界が同時にある、そういう世界が熟成してきたのではないか。「信仰の悲しみ」の世界がより純化していると解説した。

関根正二
関根正二「神の祈り」1918(大正7)年頃 福島県立美術館蔵

 「三星」(1919年)では、真ん中にいるのはゴッホになぞらえ、包帯をしている関根正二自身で、2人の女性に囲まれている。X線画像で、真ん中は、女性として描いたものを後で関根自身に転換したことが分かっている。
 関根は、オスカー・ワイルドに影響を受けた「悲哀」をキーワードにした理想的な世界を描こうとした。一方で、多くの作品では「Shoji Sekine」「S.Sekine」「S.S.」とサインしたが、幼い少年を描くときには、「Masaji」「Masaji Sekine」とサインした。村田館長は、自分の意識の中で、幼いときの自分に特別な思いがあったようだと分析。「姉弟」(1918年)で、おぶられている幼子も関根正二自身だとし、サインも「Masaji」とある、と話した。

関根正二
関根正二「三星」1919(大正8)年 東京国立近代美術館蔵 

 関根は1918年12月にスペイン風邪にかかり、19年には、次第に体調が悪くなっていったようだという。死を悟ったのか、5月に自宅裏でデッサン類を焼却。6月15日、深川の自宅で、2月頃から描き始めた最後の二科展出品作「慰められつゝ悩む」(1919年)に、母や姉に助けられながらサインをしようとするが果たせず、翌16日に20歳2カ月の生涯を閉じる。
 「慰められつゝ悩む」は行方不明である。当時の絵葉書によると、地面は金色で、3人の女性のうち、果物を持つ真ん中の女性には円光がある。左端の少年は関根の自画像だと思われる。タイトル「慰められつゝ悩む」が示す通り、ここには慰めと苦悩の両方がある。喜久子への手紙にあるように、関根が追い求めた理想である「悲哀の聖地」だろう。この絶筆の作品の中で咲いている花が、やはりアザミである。村田館長は、そう解説した。

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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