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梅田恭子 たがう/むつぶ—ドローイングと銅版画—

ギャラリーA・C・S(名古屋) 2019年11月16〜30日

 たどたどしく引っ張られるような線、勢いよく空間に刻まれる襞、かすかな繊維質にまとわりついた赤い破片、植物の根や茎のようなイメージ、顕微鏡をのぞくと見える微生物のようなもの、裂け目を伴った奔流、蒼い滲みや、闇と光のカオス。

 絵の具の転写、無軌道な線、絵の具のかすれや流れ、微細な線や点の集積が、いわく言い難い宇宙をつまみ取ったかのように、それぞれはささやかで、でも大きなものにゆだねられて生まれ、うつろうように存在している。

梅田恭子

 梅田さんの作品は、総じて小さい。虫眼鏡が会場に置いてあって、それで数センチ四方の作品を見る場合もある。

 鉛筆によるドローイング、エッチング、モノタイプなど、約50点。一部は、土佐和紙でできたコーヒーのペーパーフィルターを2、3回反復使用したものに刷っている。

 それぞれに 「たがう/むつぶ」「世界中のバベル」「考えない細胞」「臭い水」「粛清」「毒の根」など短く意味ありげな題がつく。

 作品のイメージは、どう現れるのだろう。タイトルの「たがう」は、いがみ合うこと、「むつぶ」は仲良くすること。

 紛争や対立、排除と格差、閉塞感や絶望感の中でどう生きるか。希望を抱くのが難しいこの時代を、不安と気持ちの揺らぎを誰もが感じている時代を、梅田さんは人一倍敏感に受けとめて生きている。

 そんな梅田さんが、自分の作品のイメージについて語った言葉は「重力」だった。

 1997年、国立国際美術館で、「重力—戦後美術の座標軸」という展覧会が開かれたことがあった。日米の戦後美術を重力の観点から読み直した、実に濃密で興味深い展示だった。

 この地上において、いかなる存在、いかなる営みも重力から自由ではないとして、重力という概念を導入することで、フォーマリズムでは把捉できなかったもの、モダニズム周縁のものの可能性を含めて戦後の美術を検証し直した試みである(カタログには、尾崎信一郎さんの論考と、イヴ=アラン・ボアの「重力というパンドラの箱」、ロザリンド・クラウスの「視覚的無意識 第6章」が掲載されていた) 。

 梅田さんの作品は、フォーマリズム的なものではなく、シュルレアリスムのほうにまだ近い。重力に引っ張られる上から下へ流れるイメージ、それから解き放たれ下から上へ向かうイメージ。

 流れるような動き、紙の奥から湧き出るようなアンフォルムな形象。それは、梅田さんが心や体で感じるもの、もっと言うと、梅田さんそのもののようにも思える。

 どういうことか。梅田さんは、自分の体、精神を支えることの苦しみにとても敏感である。崩れる自分に抵抗して、体を立たせ、また落ち込んでいき、それでも自分を上に向かわせ、歩き、仕事をして食事をしている。そうして重力を感じることが自分が地球に立っていること、宇宙の中で生かされ、生きていることなのだろう。


 梅田さんは構図を考えない、構図を考えると絵が死んでしまう、という。自動筆記に近いのだろうか。

 コーヒーフィルターのコーヒーの滲みを生かした版画や、デカルコマニー の作品もあるので、偶然性を大事にしているのは分かる。

 ということは、シュルレアリスム的なオートマティスムの応用だろうか。だが、梅田さんの場合は、自動筆記や無意識とは少し違うとも思う。偶然性はとても大事にしている。

 作為は避けるが、無意識というわけでもない。宇宙の中に、地球の上に自分がいる感覚が影響しているようである。

 言い換えると、構成を考えて描いているというのではなく、無意識でもなく、自分の身体と精神を宇宙にゆだねた時に現れるもの、生かされている感覚、風、音、気配、息遣いなのか、そうしたものを感じて、生かされている自分の手を動かし、それに身を任せ、向こうからイメージがやってくる感覚に近いのかもしれない。

 だから、身体と重力に意識的な梅田さんの作品は、身体的でもある。だが、それはダイナミズムではなく、弱い身体性、崩れそうな身体性、体が感じる生かされている感覚、息遣いのようなものである。

 身体的なものなので、本当は、言葉の外側にある。梅田さんの作品の洒落たタイトルは、自分自身を宇宙に預けて出てきた形象に、後から作品を見るきっかけとしてつけたものである。決して、言葉が先にあるのではない。

 梅田さんの作品は、人間理性が強い主体として、自然や素材、世界をねじ伏せ、統制し、遠近法的に世界を規定し、コントロールするという西洋近代の考えに基づいていない。

 人間を世界から切り離されたものでなく、地球に立ち、宇宙の中で漂う、その一部として捉え、そうした感覚を大切に制作している。だから、作品も小さく、弱い。

 梅田さん自身が弱く、謙虚で無力で、大きな宇宙の流れに身をゆだねようとしている。無力な自分を自覚し、内なる声に丁寧に耳を傾ける。自分を強く見せるのでなく、世界や美術の中で伍していく野心もない。

 シモーヌ・ヴェイユに「脱創造」という言葉がある。難しいことは分からないが、この宇宙の「善」を現すために、自我を脱ぎ捨てることのようである。無為、無作に近い言葉だ。

 それは構築したもの、力や権威、欲とは真逆のものである。深遠で普遍的な、梅田さんの言葉で言えば、他者と「むつぶ」ような、全てを受け入れるような、希望がほのめく宇宙に身をゆだねることである。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

梅田恭子
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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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