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都市の自然を見つめて—その変わらぬ意思について 国島征二展

なうふ現代(岐阜) 2019年5月18日〜6月9日

 岐阜市のギャラリー「なうふ現代」での国島征二展の初日。午後にギャラリーを訪れると、既に国島さんは「命の水」と称する冷酒を飲みながら早い時間に訪れた旧知の作家らと語らいの中にあった。新聞記者として美術を担当するようになった25年ほど前から付き合いのある美術家の1人である。82歳となり、いくつもの重病を乗り越えてきた人。作品に新たな耳目を引くような展開があるわけではないが、平面作品や、「Wrapped Works」「積層体」などのシリーズが精妙なリズムを刻むように配置され、展示空間に凛とする緊張感を張り巡らせていた。
 アルミニウム合金を重層化させ、中から石の一部をのぞかせる「積層体」に、黒御影石やブロンズの枝を組み合わせたシリーズ、身の回りの物を記憶とともに密封した半立体の「Wrapped Works」、あるいは、平面作品。国島さんの作品は概して寡黙であり、それでいて各要素が対比的に造形加工、配置され、一定の秩序、均衡の中に相互干渉のドラマを静かに繰り広げている。
 それは、自然の様々な現象、構造、性質を記号化し、切りつめた静謐の美の中に大いなる自然の多様性を収容するようなおおらかさをも持っている、と言ってもいい。彫刻におけるブロンズの枝は、こうした対比構造にシンボリックに作用し、作品全体を統御する役目を果たしているように見える。こうした彫刻は日本の庭園にも似たミクロコスモスを形作り、見る者の視線に遊歩を促す。
 注意すべきは、こうした抽象化された風景が理想化されたものではなく、排気ガスが充満し、ビルなどの人工物がことごとくかつての自然を侵食していった、国島さんの見た同時代の都市の「自然」でもあるということだ。つまり、そこに絶えず人間が関わってきた都市の風景、というテーマが浮かび上がってくる。人間をも含む都市の自然、風景への国島さんの洞察がここにある。

国島征二の作品

一方、壁面には、「Wrapped Works」のシリーズと、自然と環境、都市をモチーフにした平面のシリーズが並んでいた。「Wrapped Works」は、国島さんが生きていく上で自分の周囲にある文庫本や時計、絵の具、ペインティングナイフ、釘などをラッピングし、透明な樹脂で封じ込めた日記のような作品である。それは、石や金属などの強固な素材に向き合うのとは対照的に、作家と外界との交感のあかしのような生のタイムカプセルとして、繊細な感覚と共に1970年代から継続して制作されてきた。


国島さんは、かつて名古屋の桜画廊、岡崎のノブギャラリーなどで作品を発表し、今も、なうふや、名古屋のL galleryで個展を重ねている。かつて桜画廊が日本での主要な発表の場であったとはいえ、愛知県岡崎市(旧額田町)の山の中に土地を買い、1990年代半ばすぎに生活・制作の場所と定めるまでの約20年間は米ロサンゼルスが制作・発表の拠点だったこともあって、特に若い世代には馴染みが薄いかもしれない。

国島さんは、自身の作品がこのほど、ようやく名古屋市美術館に収蔵されたことを控えめに教えてくれた。「死ぬまで収蔵はないと思っていたよ」と笑うが、折しも愛知県美術館で6月23日まで開催中の「アイチアートクロニクル 1919〜2019」展に国島さんの作品はない。長年、地元で現代美術を見てきた、あるいは、プロデュース活動など、国島さんのこれまでの幅広い活動を知っている関係者、さらには、薫陶を受けたりお世話になったりした数多くの美術家たちからすると、違和感を感じる人もいるかもしれない。それでも、国島さんは過去も今も、ただ、ただ筋を通して黙々と制作を続けるだけである。国島さんが貫いてきた「個であり続ける」ことは案外、容易なことではない。彼の作品に惹かれるファンの多くは、作品がその生きる姿勢が分かち難く結晶化したものだと知っているからこそ、長きにわたって彼を慕うのであろう。

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