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久門剛史 らせんの練習 豊田市美術館 9月22日まで会期延長

 気鋭のアーティスト、久門剛史さんの美術館での初の大規模な個展「らせんの練習」が愛知県の豊田市美術館で開かれている。当初の会期は2020年3月20日〜6月21日。新型コロナウイルスの感染拡大による休館後、再開し、会期は9月22日まで延長された(ただし 6 月 22 日〜7 月 17 日は展示替えのため休館)。

 同館の新たなプレスリリースによると、久門さんによる期間限定の特別展示が6月2〜21 日、8月4日〜9月11日 (月曜休館)の午前 11 時−午後 4 時に茶室・童子苑(美術館敷地内)である。観覧無料で、観覧には靴下が必要。

 また、「久門剛史 ドローイング 2013-2020」が5月 19 日〜9月 22 日(6 月 22 日〜7 月 17 日及び月曜日は休館)、ワークショップルーム(髙橋節郎館内)で催される。久門さんの 2013 年以降のプラン・ドローイングを展示。当日の観覧券が必要。

 展覧会は、これまでの取り組みのエッセンスを紹介しつつ、美術館の展示空間に呼応する新作インスタレーションを展開。大きな力、暴力、権力、支配的な社会システムに対し、知覚を研ぎ澄まさせ、個々の時間と空間、本来の自分や、自分が生きるための選択肢に気づかせる静謐で美しい空間が連なる。美術館を《らせん》のように彫刻的で、ポリフォニックな空間に変容させている。

 タイトルの「らせんの練習」には、久門さんの作品に通底する考え方が見てとれる。回転しながら垂直方向にも移動する三次元曲線「螺旋」が、真上から見ると円であっても、視点を変えて見た構造は彫刻的であるというように、世界への見方をわずかでも変え、自分の時間と空間を発見すること、小さな出来事、変化を感じることを慈しみ、自分の知覚を拡張、更新すること――。

久門剛史

  日常に潜む要素や場のもつ記憶、歴史的事象を採取し、日常の出来事、場や事物の存在性や光、音、空気の揺らぎなど、かすかな世界の変化への意識を研ぎ澄まさせる美しい空間は、 個々の人間の時間と知覚、身体の独自性と自己決定性、永遠性と唯一性を尊重する。混迷する世界とますますシステム化される社会に流されることなく、生きている自己と、今ここにいることを呼び覚まさせる時間と空間は、世界がディストピア的な世界へと進む中、ヒューマニズムの意味と生への勇気を与えてくれるだろう。

  同時開催の開館25周年記念コレクション展 VISION part 1「光について/光をともして」では、こうした久門さんの作品と呼応する作品を特集展示。久門さんが大学で指導を受けた野村仁さん(2001年に豊田市美術館で「移行/反復」展を開催)などが紹介されている。

 久門さんは、「あいちトリエンナーレ2016」に出品。「KYOTO EXPERIMENT」では2016年4月、チェルフィッチュ の舞台「部屋に流れる時間の旅」を岡田利規さんと共同制作し、舞台美術と音響を担当した。京都市内で開催された「KYOTO EXPERIMENT2019」では、ロームシアター京都サウスホールで無人の演劇公演「らせんの練習」にも挑んだ。

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 「Force」(2020年)は、大空間を使った演劇的なインスタレーションである。壁にさまざまな矩形の28枚のアルミニウム板が取り付けられ、そこから伸びたアームの先には印刷機の給紙トレイのような装置が付いている。観客は、訪れては去っていく低周波の轟音の波を耳にしつつ、やがて、装置の1つから紙が送り出され、落下する光景を見る。そして、また1つ‥。

 ひらひらと舞い落ちる紙片は美しくも、言い知れぬ不安感も掻き立てる。ちなみに、2019年10月5〜27日、京都市内で開催された「KYOTO EXPERIMENT2019」であった久門剛史さんの演劇作品「らせんの練習」のラストシーンでは、天井から大量の紙が落とされ、終末的な不安感をかきたてられた。

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 テーブルような立体は、世界の崩壊を象徴する。直径2.3メートルの巨大な円形ガラス天板が、(テーブルの)脚が一方しかないために床にずれ落ちたような不安定な状態。床面には、天板から滑り落ちたであろう、おびただしい裸電球の束が不気味に広がり、その中にゆっくりと小さな命が呼吸するように明滅する光がある。

 ここでは、抗うことのできない大きな力、集団の力と、個人との関係がテーマになっている。背景にあるのは、久門さんがいったん就職し東京のデザイン会社にいたとき、東日本大震災で感じた違和感。未曾有の惨事の中、巨大な力に個人的な生活の大切なものがかき消されることに戦慄を感じた。久門さんは、美術作家として小さくとも届けられるものがあるのではないかということに救われ、そのことが作家に復帰するきっかけにもなった。

 崩れたガラステーブルに見られる圧倒的な力による世界の終焉。一方で、壁に取り付けられた給紙装置が、目に見えないほどの遅い速度でランダムに紙を落下させる光景は、人類が気づかないうちに終焉に向かっていることを黙示録のように暗示する。紙も電球も人類史に関わるプリミティブな素材でもある。作品が展示されたこの大空間は自然光で満たされ、朝、午前、午後から夕方にかけ、全く異なる様相を見せるという。

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 「after that.」(2013/2020年)では、闇に包まれた小空間で、ミラーボールが回っている。天井から吊るされたミラーボールには、鏡でできたおびただしい数の丸い時計。秒針も全て鏡が装着され、空間の壁に乱反射している。無数の時を刻む時計の小さな音が重なり合って、不気味に響いてくる。世界がそれを成り立たせる個の生の時間、空間の集合であることが示される。世界でうごめく時間は決して一様でなく、常に動いて、どこまでも散らばるように宇宙の中に広がる。決して、世界はただ1つの大きなものの動きではないと。

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 久門さんが幼少期に影響を受けた「ドラえもん」のタイムトラベルの入り口になる引き出しのように、個々の時間、空間の集まりとして感じられる世界。世界は、大きなシステムだけではない。個々の自分の時間、空間があり、そこを旅することができる。その人だけの空間、時間を感じられる。

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 「Pause」(2020年)は、「あいちトリエンナーレ2016」の出品作と同じタイトル。細長い展示通路の真ん中にスピーカーが立ち、阪急電車桂駅で採取した踏切の遮断機の音が流れている。シンプルな作品だが、久門さんの作品に流れる考えを如実に示している。

 遮断機の音は、久門さんの作品でよく使われる素材だ。タイトル通り、「一時停止」を含意する。今まで歩いてきた道の延長にある道の前で立ち止まると、そこにその人の選択があることが分かる。動線に流されることなく、右へ、左へ進む、あるいは引き返すこともできる。それが無理でも、わずかに角度を変えて歩くこともできる。停止は、人生の終わりでない。考える自分の時間、空間を与えられる停止である。

 「丁寧に生きる」は、外光の入る展示室3の空間に計6点のインスタレーション作品を展示。他にスクリーンプリントの平面作品1点が壁に飾られた。6点は、いずれも美術館や博物館の陳列台のようなケースを素材に作品を構成している。「丁寧に生きる」という一風変わったタイトルが含意するのは、巨大な力や集団の圧力、大きな社会に対する、着実に生きる自分の時間、営為を重ねることの意味。浮かび上がるのは、個と社会の関係である。

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 1つ目は、「丁寧に生きる—らせんの練習—」。久門さんのデビュー作である小さな彫刻「らせんの練習」がケースに入っている。久門さんにとって、木や石を削るのが《彫刻》ではない。世界を彫刻的な視点、すなわち眼差しを能動的に変えて見ることこそが《彫刻》である。らせんとは、真上から見たら円であっても、斜めから見れば高さがわずかずつ上がっていること。それは、アナログレコードのように、わずかずつでも外側から内側に向かう微差があること。毎日が退屈な同じ生活の反復のようであっても確実に変わっていること。

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 「丁寧に生きる—現在地—」は、さまざまな形のケースが積まれた作品。それぞれのケースの中には、小さな六面体が収納されている。この六面体を個とすれば、ケースが社会。自分の小さな単位が変わらなくても、どんな集団、社会に身を置くかで個の環境が変わってくる。

 「丁寧に生きる—地震—」は、崩壊をテーマとする。ケースが切断されたように一部が落下し、床に置かれた土嚢がかろうじてそれを支えている。崩壊は、物理的なものが崩れることであると同時に、信頼していたものの崩壊でもある。

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「丁寧に生きる—トンネル—」はケースの一部に円形の穴が開けられ、その部分に化粧鏡のような支柱が付いている。透明の箱でありながら閉じられた空間の境界が曖昧にされた。閉じた社会に風穴を開ける、隔てられた内と外をつなぐ、さらには、ある社会や制度とその閉域にあるものとの共依存関係を批評的に指し示し、制度的空間に依存する美術というデュシャン的なアナロジーも連想させる。

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「丁寧に生きる—具体的な関係—」は、「Force」で見られた給紙装置から落ちる紙をトレイが受け止めている作品。「Force」では、紙が高所から次々と舞い落ち、人知れず静かに進行する崩壊が象徴的に示された。ここでは「丁寧に生きる」=「丁寧に受け止める生活をする」という希望が感じられる。

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 「丁寧に生きる—完全な関係—」は、久門さんが大きな影響を受けたというフェリックス・ゴンザレス=トレスへのオマージュである。2つの時計が寄り添うフェリックス・ゴンザレス=トレスの作品《Perfect Lovers》(完全な恋人)と同様、久門さんのこの作品の2つの吊るされた電球も完全に動きが合うことはなく、いつか電球が切れるときも、どちらかが切れて、どちらかは残る。一方が死に、他方はそれを看取る。完全とは言っても完全ではない。電球に心が宿るような、切なくも美しい作品である。

 ちなみに、スクリーンプリントの作品「Harder,Better,Faster,Stronger」は、白地に白い文字がプリントされ、ブルーの水性インクを落とした部分だけ文字が浮かび上がって見える。タイトルは、フランスのエレクトロ・ミュージック・デュオ、ダフト・パンクの曲「Harder, Better, Faster, Stronger」から取られた。

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 続いて、3つの空間が連なる。最初の作品「crossfades #1」(2015/2020年)は、展示室に入って、すぐに異様な空間だと知覚する。天井、壁、床を全て真っ白にして、目地も埋められた。外部からのエネルギーを遮断するため、コンセントも取り外すという徹底ぶりである。この空間だけで完結する純粋な部屋は、タブラ・ラサのような生得観念のない状態ともいえるし、あらゆる情報、記憶を一度白紙還元して消去し、自分だけの時間、空間、知覚を感じてみようという場ともいえる。自然光によって、空間がかなり暗くなることもある。

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 壁には、1点だけ平面作品が展示されている。時計の秒針の先に付いた小さなルーペが円周を描いてゆっくり回り、鑑賞者は、そのルーペをのぞき込むことで、幅わずか0.2ミリ、高さ0.4ミリという極小の文字で円周率がかかれた円周を見ることができる。円周は、正確には円周ではなく、スタート地点から始まった円周率が一周すると、元の地点に戻らず、かすかにスタート地点の上にずれて消えていく。つまり、この円周は閉じていなくて、広がっている。

 円として閉じずに、ずれて広がって空間に解き放たれること、それこそが、らせんであり、彫刻的に見ることであり、久門さんの思想にある、自分の時間、空間、知覚を感じること、それによって生きることを豊かにしていくことである。感覚を研ぎ澄ます、知覚の解像度を上げる、あるボーダーを越えることで見えてくるものがある。

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 2つ目の空間では、久門さんの代表作シリーズの新作「Quantize#7」(2020年)を展示。扇風機で翻るカーテン、水滴の音と連動して光る多数のスポットライトなど、普段は気にも留めない生活や街中の音、光、風の動きなどが1つの空間の中で多声的に生起する。かき消されてしまうような出来事の多様な組み合わせとリズム、継起的なつながりが、それを鑑賞する人の知覚とインタラクティブな関係を開きながら豊かな時間と空間を体験させる。

 3つ目の空間の作品「crossfades-Torch-」(2020年)は、正面の壁に飾られた760×560ミリの白い紙。強烈なスポットライトが当てられ、何も描かれていない真っ白な紙に見える。だが、近づき、自分の体がつくった影の部分に目を凝らすと、紙の裏に置かれた極小のLEDライトによって、シルクスクリーンで刷られた円周率の数列が浮かび上がってくる。大きな光によってかき消されているものも、よく観察すると、普段は見えないものが見えてくる。自分の時間と空間を持つことがここでも重要な意味を持ってくるのである。

 展示室を出て、階段を降りていくと、吹き抜けのアトリウム空間に出る。ここには、29点組のシルクスクリーン作品「crossfades #4」(2020年)」が展示されている。螺旋状に無限に続く円周率の数列をシルクスクリーンでプリントしたものを原型とし、それにさまざまな手法で変化を加えることで無限数列の断片がさまざまなフェーズのように浮かび上がっている。それは、現実世界で生起する現象の背後にある秩序や情報のようでもある。

 画面の偶然的な表象の立ち現れによって開示される多様な秩序、情報のフェーズが世界に対する視点と観察の大切さを教えてくれるよう。

 空間を観察し、気付き、小さなアクションを起こす、すなわち彫刻的に世界を見る、螺旋のように世界を眺めると、空間が何かを返してくる。微細なものがきっかけとなって世界と観察者の関係性が新たに生まれ、それがさらに関わりを展開させて、アクションと変化を誘発し、見えなかったものが見えてくる。観察すること、自分が自己決定的存在であると知ること、自分の時間と空間を選んでアクションを起こすことが、毎日を更新させ、同じような一日を違う一日にする。そんなことに気づかせてくれる美しい展覧会である。

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