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渡辺英司展 Merman/おとこの人魚

ケンジタキギャラリー(名古屋) 2020年3月28日〜4月28日(臨時休業4月17日〜5月6日 振替会期5月12〜16日)

 1961年、愛知県生まれの渡辺英司さんの個展。筆者が1990年代から見てきた作家である。名古屋のケンジタキギャラリーでの個展は、2015年以来の5年ぶりとなる。
 キノコ図鑑から切り取った膨大な数の図版を針金で床から生えさせた代表作「名称の庭」、子供の描いた消防車の絵から忠実に再現した立体作品など、日常の中から選んだ主題について、反転、転用、ずらし、宙づり、言葉遊びを駆使しながら、チープな素材、遊戯の感覚、ユーモアをまといつつも詩的、哲学的で、とても奥深い作品を展開してきた。

渡辺英司

 とりわけ、イメージと言葉、概念、連想、遊びと日常が鍵語だと言えるのではないか。例えば、世界中に散らばって存在する図鑑の全てのキノコが、ある特定の場所、同じ時間に一斉に現れるという壮観な光景。
 世界各地の山の中に自生するキノコを同定するために参照する図鑑のキノコが目の前の空間に出現する、言い換えると、人間が名前を付ける以前は分類がなかった野生のキノコに対して、後から人間が分類のために付けた名称(概念)による庭をつくるという、逆転の発想による詩的世界と、現実世界との戯れ。名称の庭にあるのは、図鑑の中の分類上の概念でしかなく、キノコは実在しない。それなのに、概念が立ち上がったこの上なく美しく、世界をあまねく見通すような不思議な光景——。

あるいは、子供が、実物(テレビなどの映像、絵本なども含めて)を繰り返し見た消防車のイメージの記憶と想像力によって描いた絵から、デザインや構造、パーツや歪み、着色のニュアンスに至る細部まで再現する作品には、実物から子供の絵へというプロセスに対する、その絵から立体へというもう1つのプロセスを加えることで、事物と模倣、記憶とイマジネーション、子供と創作、制作するという行為そのものへの気づきの視点を見て取れるのではないか。
渡辺さんの作品には、逆転、反転、転覆、ずらし、宙づり等による世界への深く、ユーモアに富んだ眼差しがある。それは、日常を当たり前に過ごす中で鈍麻した私たちに新鮮な見方と批評性を提供してくれる。日常の不可思議や事物に張り付いた内的リズム、詩や遊び、子供心や無垢の回復と言ってもいいし、閉じた制作、制度化された意味へのこじつけ、可能性の捨象に抵抗する試みと言ってもいい。

 「おとこの人魚」などをテーマに数多くの作品を出品した今回の個展は、とても充実したものである。

渡辺英司

 女性の人魚、すなわちマーメイドが一定の共通したイメージを想起させるのに対し、おとこの人魚、マーマンは、宙ぶらりんで、曖昧なイメージしかない。男の人魚と聞いて、人が思い浮かべるイメージは、マーメイドほど一様ではないのだ。ウィキペディアでは、マーメイドの項目はあっても、マーマンは半魚人の項目に含められてしまう。

 海を想起させる青の地にMERMANの文字を描いただけの油彩の大作「Merman/おとこの人魚」は、作家の狙いが明瞭である。この絵から、見る人がどんなイメージの人魚を想像するかは、人それぞれに任されている。見る人のイメージした想像上のおとこの人魚像が青い地に投影されたとき、それが不可視の図となって成立する作品なのである。
 女性の人魚ほど固定したイメージがないのに加え、空想の自由度が高いがゆえに思いを巡らしてしまうところが、この作品の面白さだとも言える。おとこの人魚は、筋肉隆々かもしれないし、毛深い男かもしれない、美少年かもしれないし、半魚人のような姿かもしれない。

渡辺英司

 見る人の脳内、感情の中に絵が立ち上がるという意味では、前衛演劇あるいは落語と一脈通じるところがある。英国のアーティスト、サイモン・パターソンの偉人の名前だけを描いた肖像画も思い出した。渡辺さんの作品の青い地はにじみ、色相が微妙に変化し、筆触も豊かである。 黒色のMERMANの文字も、海に溶け込むようににじんでいて、意味深である。
 「おとこの人魚」の連作では、微妙な調子の色合いによる茶と緑の絵画が「風景2」「風景3」として展示された。「おとこの人魚」から連想すると、岩場や海の底などの風景も思い起こされる。

渡辺英司
渡辺英司

「妹」をテーマにした連作も、言葉とイメージの関係に揺さぶりをかける。大理石で作られた彫刻の「妹」も、墨で描かれた「妹」も、顔の中の具象的な要素は排除され、シルエットのイメージだけで成り立っている。

 「妹」は類縁関係を示すだけの言葉だが、人によってさまざまなイメージを想起させる。固定的なイメージがなく、辞書に挿絵を添えることができない一方で、「妹」と聞いたときに、その人にとっての何らかのイメージが湧きあがる。
 自分に妹がいる人はその人を思い浮かべるだろうし、妹がいなくて、具体的な人物を思い浮かべることのできない場合も、「妹」には、その人にとっての「妹」のイメージがある。テレビや映画、漫画のイメージから類推されるのかもしれない。「妹」のイメージをシルエットで表したこの作品は、そんな仮想的な類型を創作したのだと言えるだろう。

 積み木で表現した「イモウト」、積み木のケースにインクで彩色した「イモウト」もあって、意表を突く。
 積み木は、四角、三角、丸など限られた形態の組み合わせで、現実の事物を見立て、子どもが創造性を伸ばす知育玩具である。「妹」という抽象的な言葉から発するイメージをどこまで、それぞれの鑑賞者が思い浮かべる具象性につなげられるか。その仮想性をここでも、渡辺さんは、消防車の作品のように、言葉とイメージの関係を子供になりすました創作によって楽しんでいる。

渡辺英司
渡辺英司

 「スクリーン」と題されたシリーズ3点は、ソリッドな建物の外壁にモンスターのような人影を映した写真作品。影は外壁のみならず、床面にも広がって拡大し、それらの立体感によって歪み、まさにモンスターのように見える。
 影を建物の外壁に映した遊び心たっぷりの作品だが、写真の表面自体が平面性を持ったレイヤーであるため、モンスターのイメージが映ったスクリーンが建物の壁や床面である(つまり、モンスターは人間の影である)と分かっていても、建物や床面、空を含んだ写真イメージ全体のレイヤーがスクリーンであるように見える、すなわち、歪み、伸びた影がモンスターのように見えてしまうのが面白い。

渡辺英司

 「後光」の連作は、仏教美術やキリスト教美術の神仏、聖人などの体から発せられる光明を視覚化したものを木で削って、チープな土産の工芸品のような彫刻にした作品。崇高な超越的な力だけを取り出し、あえて黄のギザギザしたベタな表現、キッチュな彫刻にしているのは、この後に紹介する絵画「ファンデーション」とも通じるところがある。

渡辺英司

 「ファンデーション 」シリーズの絵画は、下塗りのようなモノクローム絵画である。使ったのは、絵の具でなく、専門的用途に使われる既製品の接着剤(ラバー、アクリル系樹脂、エポキシ系樹脂)。接着剤が流れたキャンバスの天地をひっくり返し、偶然的な垂れの模様を生かした山水画風、にじむような微妙な諧調、厚塗りの横方向へのストローク、マットで重厚な物質感など、それぞの接着剤の色相、特徴に応じた作品の変化が面白い。
 接着剤を使いながらも、激しい筆遣いで物質感を押し出すというよりは、画面を繊細に制御し、洗練させているのが、いかにも渡辺さんらしい。接着剤の直接的な物質性、垂れ、泡沫などの偶然性を取り入れつつ、美術史を参照させるような美しいモノクローム絵画にしている。
 「ファンデーション」の絵画では、使うと素人っぽい絵になる絵の具として、油彩のクリムソンレーキ、ビリジャンをあえてチューブからそのまま出して塗り込めた単色画も出品。深く落ち着いた画面に仕上げている。

渡辺英司
渡辺英司

 「ファンデーション」が接着剤を使った下塗り風の単色画なのに対し、「マジック」の連作絵画は、油性インク(マジック)で描いた絵画のシリーズである。丁寧に左から右へ線を引き、ペン先の痕跡が単色のストライプになっている。

 この他、糸を撚り合わせるのとは逆に刺繍糸の一部をほぐしていき、カラフルな綿状の繊維を混ぜて雲にした「手芸/識の雲・ドローイング」、その8色の糸をそれぞれに全てほぐして、8色の雲にした「手芸/彩雲」も興味深い。細い繊維を撚り合わせて糸にし、それによって装飾を施すと言う刺繍に対して、逆に糸をほぐして美しい雲にするという作品である。
老朽化し、寂れ果てた構築物ながら作家自身が新鮮だと感じた風景を写真作品にした「Fresh」もある。
 バラエティーに富んだ作品群ではあるが、渡辺さんらしい特長が一貫し、過去の作品も思い出させる展観となっている。

渡辺英司


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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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