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荒井理行 スタンディングパイン(名古屋) 

Courtesy of STANDING PINE

STANDING PINE(名古屋) 2021年11月20日〜12月18日

荒井理行

 1984年年、米国ウィスコンシン州生まれ。2011年、愛知県立芸術大学大学院美術研究科美術専攻油画・版画領域修了。

 2017年に大阪から茨城へと拠点を移して制作している。あいちトリエンナーレ2013や、翌年のVOCA展にも出品した。

 荒井さんの作品は、インターネット上から、さまざまな写真のイメージを集めるところから始まる。支持体の一部に、その写真を貼り、写真のイメージの外側に広がる世界を想像して描く。

荒井理行
Courtesy of STANDING PINE

 以前は、元の写真を貼り付けた状態のまま作品にしていたが、現在は、制作プロセスで写真をはがしている。

 貼った写真の世界がそのまま外側に広がるようにフォトリアリズム風に描いていた時期もあった。今は、絵具を注射器に入れ、そこから押し出した細い紐状の絵具で描写している。

 基本的に、支持体を床に置き、アクリル絵具を上から落とすようにイメージを拡張していく。

荒井理行

 写真を基にした多様なイメージのレイヤーが複雑な入れ子構造になった絵画は、事実や情報を巡るメタ・イメージ、世界の隠喩になっている。

 世界とイメージ、現実と現実感、情報と認知、想像力に関わる作者の問題意識が生き生きと伝わる作品である。

2021年 絵画のように / like paintings

STANDING PINE(名古屋) 2021年11月20日〜12月18日

荒井理行
Courtesy of STANDING PINE

 今回の作品は、すべて《like paintings》のタイトルが付いている。

 絵画なのは当たり前ともいえるので、逆説的なタイトルだが、いわば絵画であることを安定的に捉えていない他者性が荒井さんの作品の本質であることが分かる。

Courtesy of STANDING PINE

 制作過程の詳細や分析については、前回2019年の個展「歪む水平線」のレビュー(このページの後半)にも書いてあるので、そちらも参照してほしい。

 今回とりわけ注目されるのは、横幅が5m近いパノラミックな大作である。

 荒井さんは、使用した写真イメージについてはあまり語ろうとしないが、イメージから、東日本大震災で波にさらわれている建物や電柱を確認することができる。

荒井理行
Courtesy of STANDING PINE

 今回、荒井さんが強調していた1つが、前述したイメージの他者性についてである。

 インターネット上の画像はそれがニュース的なものであろうとなかろうと、限定的なものにすぎず、私たちは、それらを他のイメージや情報と統合することで、知覚内容を認識する。

 そこには記述可能なことも不可能なことも含まれる。それはつまり、曖昧さの問題ともいえるだろう。

荒井理行

 荒井さんが、誰が撮影したかもしれない写真の他者性からイメージをつくっていく過程は、情報の恣意性ということとも関係してくる。

 荒井さんは今回、ある写真を別の作品にも使うことで、基の写真が同じでも、作品によって全く異なるイメージが生成・連鎖していくことを実践していて、とても興味深い。

Courtesy of STANDING PINE

 イメージの他者性がさらなる他者性、複数性、複雑性、伝達性を誘発していく。これは情報の誤解、違う相手への誤配、ひいては自由ということにも通じる。

 他者性ということでいえば、今回は、注射器で支持体に落とす絵具の密度が前回より疎らで、それだけ細い紐状の絵具の生々しい質感が強く出ている。

荒井理行

 つまり、イメージの曖昧さ、揺らぎの感覚が出て、イメージのレイヤーが手前と奥で絡まるようになって、より複雑である。

 荒井さんのこうした制作過程は、イメージがどのように生成するかについて、とても示唆的である。

 そこでは、イメージが立ち上がってくるときのせめぎあいの感覚があるのではないか。それは、いまだ解像度の低い、イメージの手前のイメージのようなものが現れる瞬間ともいえる。

荒井理行

 あるいは、あるイメージが想起されたときに、別のイメージがオーバーラップして、それに取って代わる。

 荒井さんは、今回、床置きにした支持体のかなり上のほうから絵具を落として、あえてコントロールがしにくいようにした。

 その意味でも、他者性の絵画だといえる。

2019年 歪む水平線

STANDING PINE(名古屋) 2019年11月23日〜12月15日

荒井理行

 ある作品では、画布に1枚の小さな写真を貼って、その外側を想像して茶色や灰色による荒涼とした風景が描かれ、その写真をはがした場所は白っぽい地色の矩形の窓になっている。

 さらに、その矩形の上に、別の大きな写真を貼ってそのイメージの延長で外側を描いているため、2枚目の写真をはがした矩形の外には祭りのような群像的なイメージのレイヤーが立ち現れている。

 写真を貼った痕跡としての矩形の窓が、このように純然と入れ子になることもあれば、2、3の窓が重なるように配置され、複雑な構造になっている作品もある。

 また、矩形の窓がはっきりと分かる作品もあれば、窓の枠線をまたぐように絵具が覆い、よく見ないと窓の存在に気づかない場合もある。

荒井理行

 あたかも、現実とイメージの関係が逆転し、テレビやインターネット上の膨大なイメージが世界を構成しているような錯覚を覚えざるをえない現代。

 今後、一層、身体性が捨象された仮想現実の世界を生きることになると思われる中で、イメージの奔流にどう向き合えばいいのか。

 荒井さんは、そうした世界でイメージとそこから得られる視覚情報、画像データと、それに関わる人間の想像力と認知について絵画を通して考えている。

 日常においても、情報には明確な輪郭線と、発信する側と受け手の側でイメージする内容が異なる曖昧な領域、想像によって補完される領野がある。常に「事実」の周辺を回りながら、情報は伝達される。

 あるいは、そもそも、私たちが目にしたイメージは何なのか、真実を伝えているのか。

 荒井さんは、それが何を写したものか分からない画像を含め、インターネット上にあふれるイメージに別のイメージや、人間の想像力をつなげて、レイヤーを重層的、かつ入れ子的に、あえて恣意的に広げる操作をすることで、イメージを問い直していく。

 写真イメージの外側を描くプロセスでは、写真の近くでは元のイメージに連なるように描かれ、周縁にいくほど、元のイメージとの関係が薄れ、自由に描けるようになる。

 つまり、人間の想像力の入り込む余地が大きくなる。

 現実を写したであろうインターネット上のイメージと、人間の想像力がコラージュされ、レイヤーを重ねながらメタイメージとしての新たなイメージが生み出されるプロセスがスリリングだ。

 フォトショップは言わずもがな、スマホのアプリで素人でも写真をいくらでも加工できる時代である。こうしたイメージの恣意性をソフトウェアによる写真の加工、変換で示す方法でなく、絵画の可能性として応用しているのが興味深いところだ。

 元のイメージの写真をキャンバスから取り除き、ぽっかりと開いた窓を見せることで、イメージの根拠さえも揺らぐ。その空虚に別の窓から、写真を基にしたもう1つのイメージがやってくる。

 もはや錯綜しているが、紛れもなく、荒井さんによって紡がれたイメージは、現実から展開していったものである。

 それは、イメージのモンタージュ、変換、加工、揺らぎ、さらには、人間による想像力や歪曲、思い込み、誤謬とともに生きている私たちが向き合う《現実》そのもののようにも思える。

荒井理行

 今回の作品展開では、フォトリアリズム風に描いていた想像の部分を、注射器で絵具を落とすようにした点でも注目である。

 デジタルの画像データは、最小単位の点であるピクセルで構成されるが、今回、荒井さんは注射器から出す極細の紐状の絵具でイメージを構成した。

 注射器から絵の具を落とすという間接性を高めることで、ドリッピングやポーリング ほどではないにしても、完全な統制を免れ、細い紐状の絵具によるイメージが、歪曲、途切れ、脆さ、曖昧さ、もつれ、重なりによって、イメージの不安定さ、虚構性、多重性などのメタファーとなっている。

荒井理行

 具体的なイメージがなく、紐状の絵具がキャンバスに重層的に塗ってある作品がある。

 このポロックを思い起こさせもする作品は、荒井さんの制作過程と問題意識を振り返ると、混沌とした現代を表象するようで、意味深である。

 おびただしいインターネット上の写真は、どれほど確かであるのか、何を意味するのか、だれに向けられたのか。

 私たちがいくつもの映像情報を集めて脳内で世界を認知する中で、荒井さんの絵画は、イメージが生成される前の原野、この世界が、糸のようなものによって織りなされる多層的なレイヤーが複雑に絡み合ったものではないかという世界観をも示しているように思える。

 これこそ現実の混沌かもしれないし、いくつものイメージやデータを呼び込みながら、具体的なイメージに結ばれえない、主体内部の混沌かもしれない。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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