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あいちトリエンナーレ リポート 四間道・円頓寺①

キュンチョメ、津田道子、岩崎貴宏、毒山凡太朗

 アート・ユニットのキュンチョメは、性別を超えた人たちとその人の名前をテーマにした2つの映像作品を展示した。性別を変え、自分の名前を自分の意思で変えた人を訪ね、インタビュー形式で登場させた作品は、「男性」「女性」という性別の二分法さえ超越し、出生時に割り当てられた男性でも女性でもない「Xジェンダー」を含め、性と名前の関係を批評的に捉え返す。
 今回のトリエンナーレのテーマである「情」に照らせば、名前には、親の愛情である「情」と、個人のアイデンティティーを記号として名付けた、社会の一員として必要な情報としての「情」があり、ともに重いものだというのが前提。キュンチョメの作品は、そうした親の愛情や社会の常識、世間的な同調性に対抗し、同質化への配慮を捨てて自分自身を生きるとは何かを問いかける。
 1つは、違和感のあったおっぱいを30万円かけ、タイで取り除き、性別を変えた人が、母親と一緒に書道をする映像。母親は、いつの間にか、タイでおっぱいを取っていたわが子の姿に驚きながらも、わが子と2人で手を重ねて1本の筆を持ち、最初に黒い墨でかつての名前だった「彩乃」(親が決めた名前)を書き、次に、それを打ち消すように今度は朱色で新しい名前である「世治」(自分で決めた名前)を上書きする。それは、新しい自分に変わる形式的な儀式にすぎない共同作業なのだが、デリケートな問題だけに生々しく、そこはかとなくエロスがある。
 その間、「実家より(今いる場所の方が)いいから帰らないよ」「父親は少年院で一番字が上手いと自慢していた」「お母さんと(一緒に)いた20年間を後悔している」「私の人生、(性別を変えた)今が一番幸せ」などと、親子の会話が交わされる。インタビューに、「なんとも言えない(気持ち)です」と答える母親の回答がリアルだ。母親は、自分たちが名付けた「彩乃」というかつての名前で呼んでいるが、本人は新しい男性の名前で呼んでほしい。

 もう1つの映像では、名前と性別を変えた3人が登場し、新しい名前を叫び続ける。その1人は、米国人のジューンさん。身体的には男性だが、出生時に割り当てられた男性でも、女性でもなく、「Xジェンダー」として、親から決められた聖書由来の名前「ジョシュ」から変えた。映像の中のインタビューで、父親が牧師で、幼い頃から教会に通っていたこと、米国にはゲイを矯正する施設もあることなど、これまでの半生と米国のLGBT事情が語られる。いよいよというタイミングで、映像が暗転。音声だけになったところで、「私の名前はジューン」と自分が決めた名前を叫び続ける。

 江戸時代の商家・伊藤家住宅では、2作家が展示。鏡やフレーム、映像装置を使った作品などで知られる津田道子は、空間の中で、見る/見られる、実像/虚像、現在/過去、自己/他者などの境界の異化によって、意識、認知、身体感覚を揺さぶる作品を出展していた。
 日本家屋の縁側との境目となる襖の部分が鏡のように室内を映しているように見えるが、反対側の小庭に設置したカメラで撮影した時間差のある映像(鑑賞者も映っている)や過去に室内で撮られたフィクションの映像が介入し、時にオーバーラップ。さまざまなレイヤーの映像の作用で、自分がどこにいるのか分からなくなる。津田は、生活音、環境音とともに日本家屋の外と内の関係等を思索・考察したオーディオ作品も出品。ホワイトキューブでなく、こうした日本家屋で作品を展示するコンセプトにもつなげた。

 岩崎貴宏は身の回りの物で風景を創造し、スケール感、全体と部分や対象の見え方の変化を促す操作を知的に、繊細にくわだてる。今回は、空襲を免れた「伊藤家住宅」の蔵の中に、タンスや本、時計など、日常的な生活用品を積み上げ、時間と記憶を堆積させた上に炭を敷き詰め、焦土なった名古屋の町を「再現」している。
 戦禍を生き抜いた蔵の中に、焼け野原の風景をしまい込んだ入れ子構造の作品で、炭などを使って再現した焦土は、いかにもという風景として精緻に再現されている。名古屋城は無残な石垣だけとなり、他に、焼けただれたテレビ塔も立つなど、不気味だ。過去とも未来とも受け取れる風景は、広島出身で同地を拠点とする岩崎の作品がかねてから、広島の場所性、歴史性とつながっていることを考えると、恐ろしくもある。原爆ドームがヒロシマの象徴となったように、テレビ塔と名古屋城が焦土の象徴になっている風景は一抹のユーモアを感じさせながらも、寛容さを失い、民族や人種、国家間の対立、排除の動きが加速し、閉塞感を強めている世界を思うと一層、悪夢である。

 毒山凡太朗は、東日本大震災と原発事故で故郷の福島の状況が一変したことをきっかけに制作を開始。忘れ去られた過去の記憶や場所、現代社会で見えにくくなった問題や事象を調べ、映像やインスタレーションにする。
 今回は、日本語を強制的に普及された日本統治下の台湾で日本語を国語として学ばされた高齢者へのインタビューを映像にした「君之代」、深夜に公共の場で眠る酔客にグローバル企業のロゴが記された布を掛けていく場面をつないだ映像作品「ずっと夢見てる」、名古屋の名物・ういろうを花びら型に成型し、満開の桜の木を表現した上で、ういろうに関するインタビュー映像とともに展示した《Synchronized Cherry Blossom》を出品。作品は、それぞれ独立しながら、相互に関連づけられ、国家権力や権威主義、国や地域の表象とシンボル、全体主義と個などについて考えるよう促される。

 毒山は、「表現の不自由展・その後」が中止になった問題を受け、出展場所近くの円頓寺本町商店街に、アーティスト・ランによる新スペースを開設。これとは別に、トリエンナーレの参加作家である加藤翼とともに、別のアーティスト・ラン・スペース「サナトリウム」も円頓寺本町商店街内に開くなど、活動を活発化させている。

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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