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アイチアートクロニクル1919-2019座談会「公立美術館と地方の反芸術」

 愛知県美術館で6月23日まで開催されているリニューアル・オープン記念全館コレクション企画「アイチアートクロニクル1919-2019」の記念座談会「公立美術館と地方の反芸術」が2019年6月8日、名古屋・栄の愛知芸術文化センターで開かれた。同館主任学芸員の石崎尚さんに小松健一郎さん(北九州市立美術館学芸員、林田龍太さん(熊本県立美術館学芸員)が加わり、2時間半にわたって、1960、70年代の地方の反芸術運動の歴史化と、美術館の役割、地方美術史を巡る熱い議論を展開した。
 最初に、石崎さんが国立国際美術館新築移転一周年記念連続シンポジウム「野生の近代 再考—戦後日本美術史」記録集で、正木基さん(当時、目黒区美術館)が「地方の前衛」という言い方について、地方の小グループが全て前衛ではなかったのだから、「アンデパンダンと小グループの時代」とした方がいいのでは、と提言したことに対し、「もう一度、過激な方向に戻したい」と発言。前衛や反芸術の試みは、素材や展示物に耐久性がなく、仮設的な展示やハプニングも多かったので作品が残りにくく、最も公立美術館が不得手とする分野だが、あえてそこに議論を限定したいとの方向性が示された。
 続いて、石崎さんは、福井県立美術館での「土岡秀太郎と北荘・北美と現代美美術」(1983年)をはじめ、各地の公立美術館で開かれた反芸術展を紹介。97年ごろから13年ほど途絶えた後、ここ10年ほどは、静岡の「グループ『幻触』」、関西の「THE PLAY」などを紹介する展覧会が再び開催されるようになり、昨年には、今回のゲストである小松さんが企画した北九州市立美術館の「森山安英—解体と再生」、林田さんが企画した熊本県立美術館の「変革の煽動者 佐々木耕成アーカイブ」が開かれたなどと、経緯を示した。石崎さんは、反芸術が狭い芸術領域にとどまらず、歴史や社会、他ジャンル、その時代の風俗と関わっていく運動として広がりがあることに注目している。

愛知県美術館の石崎尚主任学芸員

 続いて、小松さんが森山展の経緯や内容を森山さんの活動当時の貴重な写真資料などとともに紹介。小松さんによると、森山さんは1968年から73年まで「集団蜘蛛」として前衛活動を展開。その後、15年間、公の場に出ることはなく、87年に絵画を再開した。前衛時代の活動には、商店街でのハプニングで、大きなキャンバスに、あるメンバーが目隠しをして絵を描く一方で、別のメンバーがガソリンでその絵を消していくなど、内部成員を標的に「粛清」するような過激な内容も含まれた。
 「粛清」をへて残った3人は、集団のメンバーという言い方でなく、「義兄弟」として、路上ハプニング、全裸写真ポスター、画家菊畑茂久馬さんの作品の盗作版画、ゼロ次元とともに開いた万博破壊九州大会、不在のゼロ次元を模倣したハプニング(畸型三派狂乱大集会)などを展開した。
 グループ内部の内ゲバ的攻撃、別の作家の作品盗用、ゼロ次元など他のグループのパロディなど、権力というより仲間内の前衛作家を標的に「コケにする」「ふざけ散らす」という「反・反芸術」の側面があったという。73年9月の裁判で有罪となると、以後、15年ほど、姿をくらます。 
 1987年に絵画制作によって活動を再開。アルミの粉末を素材とした絵の具を流した銀色絵画を描き、その後、蛍光色も使い、写真家の石内都さんの広島のシリーズに触発されて制作するようになった具象絵画に至った。
 展覧会に向けた作業は、450点もの全絵画の調査、資料や写真の精査、20時間、13万字を超えるインタビューなど膨大なものとなった。

小松健一郎(北九州市立美術館学芸員)
北九州市立美術館の小松健一郎学芸員

 続いて、熊本県立美術館の林田さんが、佐々木展について説明。佐々木さんは熊本県菊池市出身。「ジャックの会」の中心的人物として、1964〜67年の短い期間、東京・荻窪を拠点に活動した。林田さんによると、作品を売る運動として、「千円均一」を実行。唐突に、団地の空き地でボーナス時期を狙った「団地ボーナスショー」と題したセールを団地に無許可で開くなど、無計画性が際立っていた。地方アンデパンダンへの参加、テレビ出演、街頭パフォーマンスなどを特徴とし、不特定多数の市民を対象に人々と共にある美術を模索しながら、パフォーマンスへ移行する段階で空中分解していく。
 1967年、佐々木さんが渡米し、グループは自然消滅。佐々木さんも間もなく、美術活動を中止する。こっそり帰国していたのが87年。桐生市黒保根町の山中にアトリエを構え、巨大な絵を描き始めた。2000年代まで帰国したことは知られていなかった。
 佐々木さんは、これは絵ではなく、私的な記号のようなものと言っていたらしい。2010年に東京の3331 Arts Chiyodaで佐々木耕成展「全肯定 OK.PERFECT.YES.」が開かれ、図録編者の美術評論家、福住廉さんらが論考を発表した。

熊本県立美術館の林田龍太学芸員

 林田さんは、佐々木さんが熊本生まれとはいえ、東京が活動拠点だったことから、なぜ佐々木さんを県立美術館として取り上げるのか、と自問した。県内だけで熊本の美術をまとめようとすると、その地域の閉鎖的なヒエラルキーに収束しかねない。林田さんは、そうした問題意識から、佐々木さんが1963年に熊本で展覧会を開き農機具による反芸術インスタレーションを展示していることに注目し、「上京と帰郷の画家」というかねてからの継続した視点(同館では2014年に「熊本—東京 画家たちの上京物語」展を開催)に繋げた。インスタレーションやパフォーマンスを中心とする60年代の作品が現存せず、また、渡米前に作品が捨てられたこともあり、展示できたのは本人所有のスクラップブックや、個展の際に販売され所有者が分かった作品、オーラルヒストリー、帰国後の大型絵画に限られ、常設展示室で記録写真のスライドショー、資料を中心に展示した。
 反響としては、「田舎の資料館みたい」「難しい」などの声があり、ほとんど話題にはならなかった。林田さんは、今回のケースでは、佐々木さんが上京し、新しい前衛芸術を東京から熊本へ持ってこようとしたという、中核(東京)→周縁(地方)の動き、東京側からの視点だったことに触れ、次回は、熊本側から調べたい、と発言。これに対し、石崎さんから、ゼロ次元を愛知の文脈で語る意味と重ねる意見があった。

この後、3人が鼎談。ここで前景化したのも、ローカルな美術シーンと東京との関係。林田さんは、地方から東京、東京から米国、という周縁から中心地に向かうベクトルの文脈で見ると、どうしてもヒエラルキーができ、地方の作品が(東京の有名作家の作品の)劣化コピーとなる。美術以外のもの、その土地の歴史や人々に愛されたもの、例えば、熊本で言えば、生き人形などに注目すれば、劣化コピーでなく、その土地の価値観として存在できる、とした。
続いて、地方における批評家やオーガナイザーの欠如、評論家自体が「東京=最先端、地方=遅れた美術」という構図を持ち込む場合もあることなどに言及があった後、石崎さんが、東京五輪や大阪万博など大都市の繁栄に対する地方からの批判、地方の災害、停滞、社会問題などに美術家がどう向き合うかによっては、地方の前衛にはポテンシャルがあるのではないかとの問題提起があった。
これに対し、林田さんは同意しつつも、熊本での水俣病に当時の地元の美術家が関われなかったことに触れ、小松さんも、北九州における八幡製鉄のような企業城下町的な地方での力関係、閉鎖性、濃密な人間関係などから、距離の近さゆえに美術家がその地域の社会問題などに関われなかった状況もあったのではないかなどと応じた。
日本の公立美術館のスタンダードなあり方として、ルポルタージュ絵画のような社会的な絵画を避けるなど、政治的なものはできるだけ排除する力学が働いていたのではないかという指摘もあった。
また、こうした前衛美術家の調査や展覧会企画をする際、当の美術家へのオーラルヒストリーが中心となるために、本人の視点、見方、意向に左右されること、また先行インタビューがある場合、作家の記憶が曖昧なこともあって、本人の口述する歴史自体がその先行取材から紡ぎ出された文脈・型や美談に再編集されてしまう恐れがあることなどが指摘された。相対化には、本人以外の様々な人への取材が必要であるとしながら、美術史を超えた個人史の部分にも関わるため限界もあるとし、最後に、三人は、資料を残すこと、その資料をオープンソースとして後続の研究者に引き継ぐことが重要との認識で一致した。

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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