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魚住哲宏+紀代美/ 存在するのに耐えられない軽さ LAD GALLERY

  • 2020年7月8日
  • 2020年7月8日
  • 美術

LAD GALLERY(名古屋) 2020年7月3〜24日

 魚住哲宏さんは1980年、愛知県生まれ。2007年、愛知県立芸大大学院彫刻専攻を修了した。一方、魚住紀代美さんは1981年、和歌山県生まれ。2004年京都造形芸術大美術工芸学科彫刻専攻卒業。2人は共同制作を始め、2007年から、ベルリンを拠点としている。中之条ビエンナーレ2015・2017、「東アジア文化都市2018金沢 変容する家」(2018年)など国内外で作品を展示している。

 展開する作品は、滞在先など、ある国、地域の日常の不用品、音源、光を構成したサウンドインスタレーションである。今回の作品も、ギャラリー空間のそこかしこに物が配置された。スピーカーから流れる音、点滅する電球の明かりとともに、それらが連なり、全体が1つの空間を構成しながら、それぞれの部分が独立した作品にもなっている。

 黒く塗られた吊るされた日用品、逆さまになった女性の頭像、色あせた古いポートレート写真・・・。作品は、全体に重い雰囲気である。だが、見る者がそこになんらかの意味、物語、価値を読み取ろうとしても、すぐに何かを応答してくれるほど単純ではない。集められた物や音、光から、明確な文脈は読み取りにくいのである。

 同時に、全くランダムに並べられているわけでもない。あえて、特定の意味に回収されてしまうつながりは避け、空間をつくっている。小さな断片による修辞を駆使しながら、見る人の記憶、発見、想像力によって、そこから作品を開いていく。ささやかな隠れた物語が浮かび上がるのを静かに待っているかのようである。

 例えば、今回の作品「午前4時10分前」では、黒く塗られた日用品がチェーンのように連なり、そこに水の落下する音、電球の光が加わっている。

魚住哲宏+紀代美

 聞くところでは、ベルリンの自宅で未明に目を覚ましたときに耳に入った蛇口から落ちる水の音の反復が、作品のきっかけになっている。それでも、黒く沈んだように塗られた日常の物や、点滅する光などから、明確な何かが表象されているとは言い難い。むしろ、日用品は、色彩とともに個性が抹消され、一層、物語の可視化が剥奪されている。

 カセットのケース、照明器具、虫眼鏡、キーホルダー、鍋の蓋、容器など、取るに足らない物が数珠つなぎとなって、天井から壁、さらには床に向かって垂れ下がっている。一番上の鍋の中のスピーカーから、水が滴る音が響く。照明器具は、時折、点滅する。垂れ下がった全ての物が黒く塗られていることを含め、どこか異様でキッチュな隊列のようである。

魚住哲宏+紀代美

 あるいは、「アノニマス」というタイトルの立体では、布生地で造られた女性の頭像がひっくり返って台座に傾いて載っている。素材は石膏か粘土系のものかと思ったが、布のようである。

 女性は、髪や首元、鼻、口などがしっかり造形されている半面、これもまた黒くマットに塗られて匿名化され、物語には容易に結びつかない。個性がないのである。特に人間の顔の個性を左右する目は閉じられ、そこに真鍮が嵌め込まれていることもあって、作品が意味するところが窺い知れない。口は、ぽかんと開けているものの、驚きなのか、苦痛なのか。目の上にある真鍮は、のぞき込む鑑賞者の目を映し込み、逆に、こちらを見透かしているようでもある。


 2人の作品は、日常のもの、偶然集めたものを文章のように構成しながら、それらの個性を消し、文脈になるのを回避する。
 それでも、私たち鑑賞者は、意味を求めてしまうだろう。なぜなら、美術作品の無意味には耐えられないから。

魚住哲宏+紀代美

 蚤の市で見つけた女性の写真を転写した「十字架のネックレスをつけた女」「真珠のネックレスをつけた女」も、女性の目の位置に円形のアクリル板が付けられ、女性の個性が奪われている。アクリル板の一部が鏡面になっていることもあって、表情や個性を読み取ろうとすると、自分の目が映りこみ、見る者自身の想像力、記憶や感情の奥底にベクトルを反転させるように、眼差しがこちらに返ってくる。

魚住哲宏+紀代美

 あるいは、展覧会タイトルと同じ「存在するのに耐えられない軽さ」と題された作品は、台座上に白い鍋が置かれ、水が沸騰する音が流れている。鍋に入っているのは、水ではなく、真っ黒なビーズで、それらが水が激しく沸騰するスピーカーの音で振動している。黒いビーズは、区別することができないほど個性がない。存在が軽いのである。

 この展覧会のタイトルは、ミラン・クンデラの小説「存在の耐えられない軽さ」から借りている。

 冷戦下の1968年、チェコスロバキアの改革運動にソ連軍が侵攻したプラハの春を題材にしたクンデラの恋愛小説は、軽さと重さ、人生の無意味と意味を巡って展開する。魚住さんらの作品も、作品の無意味と意味、物語(テーマ)と鑑賞者とのインタラクションを巡って存在する。
 2人の作品は、既存の価値観、与えられた視覚情報や、意味や物語の中で消え入りそうな小さなかけら、軽さ、匿名性、無個性、すなわち、文脈化されない無意味さで成り立っている。

 もっとも、見た目の軽さ、ささやかさを追究するわけではない。そうすれば、その軽さが、重さの対極的なものとして、別の物語性や意味、文脈ををもってしまうから。そんな美的価値、意味や物語から離れて、2人の作品はキッチュで所在なげである。

 それでも、私たちは、意味や物語、文脈を求めてしまうだろう。どうすればいいのだろうか。

 それは、これらの作品がそれらしく見せる紋切り型の意味に感覚を委ねないことである。物語や意味、文脈を回避している作品と、私たち見る者の個別の想像力、記憶、感情が交差することで、豊かな物語が生まれるのである。

 

 

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