上野英里 ひとりじゃない ノダコンテンポラリー(名古屋)

NODA CONTEMPORARY(名古屋) 2020年11月13日〜12月5日

上野英里

 上野英里さんは2019年、名古屋芸大洋画科を卒業。現在は、名古屋芸大の同時代表現研究の研究生である。

 YouTubeで見た演劇やミュージカルなどの舞台の1場面、あるいは、報道番組の映像をタブレット端末を介して、描いている。高画質でなく、YouTube 、Twitterの粗い画面をあえて選んで、絵画のモチーフにしていることに注目したい。

上野英里

 画面の肌理が荒いだけでなく、絵具の塗り残しやはみ出し、汚れ、流れ落ちる絵具が際立ち、また、キャンバスの物質感があらわになることによって、描かれた映像のレイヤー、その下層のキャンバス面を意識させる。

 つまり、いかにも現代的というか、映像データをモチーフにしながら、絵画の本質が剥き出しになっている。

 この荒れたレイヤーの重なり、絵画を絵具の層として強く意識させるのが上野さんの作品の特徴である。

上野英里

 もともと、海外のドラマが好きで、英語を勉強。2017年に3カ月、英国・ブライトンに留学したときは、天井桟敷のような安い席でロイヤル・ナショナル・シアターなど生の舞台を見ていた。

 当然、舞台まで遠いので、俳優の顔も細かな演技も見えない。こうした経験もあるからだろうか、上野さんは、複数のカメラ、卓越したカメラワークで、アングルや画角を絶妙に変化させた高画質の舞台映像より、定点カメラで撮影したYouTubeの映像に、より本物の舞台を見た記憶に近いライブ感を感じるという。

上野英里

 つまり、YouTubeなどで見る映像の方が、離れた席から遠くの舞台を見る感覚に近い。YouTubeの粗い映像では、明瞭に見えすぎることがなく、薄暗い照明では、人と人、人と背景が溶け合い境界線が曖昧になる。

 この感覚体験を、上野さんは大切にしている。

 筆者も小劇場演劇が好きなので分かるのだが、確かに実際に劇場で見る舞台では、照明が暗いことが多く、ハイビジョンで録画された映像ほどに人などの明瞭な輪郭がない。

上野英里

 むしろ、人と人、人と舞台美術がうごめくアンフォルムなイメージの連なりに見えなくもない。それをアップにして、くっきりとした輪郭で映せば、舞台の魅力は蒸発する。

ハイビジョンの舞台映像と、劇場で見る舞台は別物である。

 上野さんは、そうしたYouTube映像をスクリーンショットで撮影。Photoshopで編集する。

上野英里

 主題を決めてファーカスし、明暗、色調を整えた後、いったん白黒に変換して、それをプロジェクターでキャンバスに投影する。 

 筆者は、タブレットを見てそのまま描くと思っていたが、綿密なプロセスがあるのである。

 まず、投影したイメージを頼りに、大まかに形をなぞりながら、画像を見て描く。

上野英里

 テレピン油で形を抜くような作業によって、薄い皮膜のような面を1つ目のレイヤーとし、次に形を整えながら、ストロークやマチエールによって、2つ目のレイヤーを重ねる。

 さらに絵具を載せつつ、余分な絵具は使わず、引き算の発想で仕上げていく。これが3つ目のレイヤーである。

 興味深いのは、上野さんが、人間(俳優など)の体の形、顔を描くという意識でなく、プロジェクターによって、キャンバスに投影された人間と人間、人間と背景の境界が溶けるような瞬間、人間とはいえない形、アンフォルムなイメージ、不明瞭な形象を描く意識で、絵具を定着させていることだ。

上野英里

 これは、上野さんの作品の中で、とても重要である。物理的な身体とアイデンティティーをもった人間でなく、渾然とした映像を描いているということ。

 映像をモチーフとしながら、明瞭性はなく、荒れた画像、不調、汚れや、しみなど、不鮮明な画面からは、どこか不穏な雰囲気が立ち上がる。

 それは、フィルム・ノワール のような虚無的、悲観的、退廃的な空気と言ってもいいし、何か事件が起こりそうな雰囲気と言ってもいい。

上野英里

 その不穏さは、キャンバス面の露出、乱雑に切断したキャンバスの歪んだ矩形など、絵画の中の主題、物語に容易に没入させない上野さんのしたたかな方法論からも来ている。  

 上野さんは、演劇やミュージカルの場面を中心に描いているが、おぼろげな映像の中の人間は、俳優やダンサーとして見る者にこびることがない。

 むしろ、そこにあるのは、俳優やダンサーの存在を超えた不気味さ、説明できない空気なのである。

上野英里

 その意味では、まさに演劇を描きながら、YouTubeなどのタブレット画像を基にしたそのイメージは、鑑賞者を意識することがなく、「反演劇的」なのである。

 それは、始まりも終わりもなく、演劇の1場面ですらない、俳優ですらないかもしれない。

 身体性と個性をもった俳優、観客にこれ見よがしに演技をする存在ではなく、ただ単に、絵具のレイヤーが重なる不穏な絵画性である。

上野英里

 これは、絵画の主題、舞台のタイトル、場面や物語から目を逸らし、絵画を見せようとする上野さんの思惑通りである。

 このことは、おそらく、上野さんの演劇の見方、世界へのまなざしと一脈通じている。

 上野さんは演劇やミュージカルが好きだが、それらの甘美な世界に酔う、できすぎたハッピーエンドの物語に没入するというよりは、アイロニカルな視線、冷徹な分析を向けている。

上野英里

 明るく全てが明快な舞台でなく、人と人の境界が混じり合うようなアンフォルムな舞台を、完璧なセットでなく、ミニマムな何もない空間で、見えないものを脳内に見せる魔術を、である。

 それは、物語の中に没入させることなく、文脈から切り離された1つのイメージ。

 演劇の場面がやがて場面でなくなり、人間、群衆がただの素材となって、つまり人間らしさ、群衆らしさもなくなって、もやのようなもの、そのレイヤーの重なり、絵具、色彩、形象、線そのものの戯れに見えてくる。

上野英里

 だが、同時に、それだけだろうか。

 筆者も舞台が好きである。だが、面白ければいい、楽しければいいという意味でのエンターテインメントとしては見ていない。

 予定調和的な甘美な物語、はっきりしすぎた輪郭の個性豊かな有名俳優、エレガントな世界でなく、ピーター・ブルックの言うところの「なにもない空間」から立ち現れる、内面を揺さぶる何か、不鮮明ながら、どきりとさせるもの、普段見えない世界を開示させてくれる何かを求めている。

 上野さんの作品に感じるものも、見る人によって異なるだろう。それは、優れた舞台と同じである。その何かは、見る人に開かれている。

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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