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上野英里  ノダコンテンポラリー(名古屋)

NODA CONTEMPORARY(名古屋) 2021年12月3〜25日

上野英里

 上野英里さんは2019年、名古屋芸大洋画科を卒業。愛知県を拠点に制作している。

 ノダコンテンポラリーでは、2020年の「ひとりじゃない-You’re not the one-」に続く個展である。

 YouTubeで見た演劇やミュージカルなどの舞台、映画の1場面、あるいは、報道番組の映像をモチーフに油絵具で描いている。

 映像をプロジェクターで支持体に投影し、トレースするのが基本である。

上野英里

 もともとのストーリー、意味、文脈から切り離された映像を描くことで、イメージと物質、現実と虚構、そして、空間、人間を問い直している。

 しかも、上野さんがモチーフとする映像は高画質なものではなく、YouTubeなどの粗い画質である。

 そうしたイメージに、舞台本来の時間、空間と、映像の面白さを感じ、あえて選んでいるのが最大の特長である。それらの多くは、違法アップロードされた映像である。

 上野さんは、荒れた映像の、人物と人物、人物と空間の境界が溶け合うようなイメージにこそ、リアルな人間存在のありようを見ているのだ。

 ページ後半にある2020年の個展レビューも参照してほしい。

2021年 誰が 捧げる 誰に-“Who serves Whom?”- 

NODA CONTEMPORARY(名古屋) 2021年12月3〜25日

上野英里

 YouTubeに違法アップロードされた動画など、粗い映像では、人間が人間として鮮明な像を結ばず、空間や周囲の人との境界があいまいになる。いわゆる黒つぶれ、白とびなどを含め、存在のアイデンティティーがなくなってしまう。

 今回も、上野さんは、人間らしさ、人間の個性をを描こうとはしていない。むしろ、私たちが印象付けられるのは、粗い粒子の中に溶け込んだ人間の希薄さである。

 2017年、英国・ブライトンに留学。演劇好きな上野さんが、ロイヤル・ナショナル・シアターなどの天井桟敷から見た舞台上の俳優は、はるか遠くに小さく見えるだけで、暗闇の中に沈み込んでいた。

上野英里

 そこに、上野さんは単なる舞台俳優の姿でなく、人間存在そのものを重ねたのではないだろうか。

 そうした舞台映像、映画、ニュース画像をモチーフとした今回の展示では、連作のかたちで出品されたものが目立つ。

 中でも、ロイヤル・ナショナル・シアターで上演され、高い評価を受けた「夜中に犬に起こった奇妙な事件」を題材にした作品は、興味深い。

上野英里

 舞台の床面にプロジェクションマッピングをして、映像と演劇を融合したミニマルな舞台の雰囲気が、上野さんの絵画から、とてもよく伝わってくる。

 映像が投影された空間の背後の暗闇にいる俳優を上野さんは薄い絵具を何層も重ね、かすかに浮かび上がらせている。

 筆者は、この舞台を見ているわけではないが、舞台の生々しい感覚やメタシアター的な雰囲気がとてもよく出ていると思う。

上野英里

 上野さんの絵画では、舞台空間の映像を描くことが、演じることや生きること、それを見ること、他者との関わり、人間存在について探究することにつながっている。

 マリリン・モンロー出演のミュージカル映画「紳士は金髪がお好き」をモチーフにした一連の作品も見どころである。

 上野さんは、マリリン・モンローのスター性を描きたいわけではない。このシリーズでは、同じ服を着て、同じダンスを踊る人々がモチーフである。

上野英里

 マリリン・モンローは、あまり絵具をのせず、白抜きに近い感じで表現し、むしろ、周囲の名もなきダンサーや脇役を丁寧に描いている。

 マリリン・モンローのアイコンを使いつつ、粗い映像の中に溶け込み、空間や他の人物と区別されない群像を通して、人間とは何かを問うているようにも思える。

 人と人との境界がなくなり、空間と一体化しながら演じる人々に明らかな個性は確認できない。存在自体の儚ささえ感じさせるものだと言ってもいい。

上野英里

 だが、同時に、荒れた映像の中にかろうじてへばりついている形象が、逆説的に、すべての人間が既にその場に存在し、誰とも同じでない唯一のその人であることを物語っているようにも思えるのである。

 カンカンダンス(フレンチカンカン)のシリーズで描かれたショーダンスの女性たちにも、筆者は同じものを感じる。

上野英里

 身体とロングスカートのフォルムが一体になっているイメージである。白の絵具を効果的に使い、キャンバス上で絵具を混ぜるように描いている。

 ニュース番組の映像をモチーフにした作品も展示された。

上野英里

 屋外のベンチに座る女性たち、背景の木々、地面とそこに伸びる影が1つの空間をつくり、画面下にテロップが描かれている。

 ボブ・フォッシー監督・振付のミュージカル映画「スイート・チャリティー」の一場面や、同じくボブ・フォッシーが手掛けたブロードウェイミュージカルの隠し撮り映像もモチーフになっている。

 荒れた、ありふれた映像だからこそ、そして、それが舞台の映像であるからこそ、虚構性がよりあらわになる。

上野英里

 しかし、 たとえ固有名を奪われていようとも、闇の空間や周囲の人との境界がなくなってしまうようであっても、そこには、確かに人間が映っている。

 そのかそけき存在は、高画質映像より、はるかにリアルで、尊い人間存在であるように思える。

 上野さんの作品では、その存在の希薄さ、乱れた映像を絵画にすることで、イメージと物質を行き来している。

 現実と虚構のあわいから、人間とは何かという問いが浮かび上がる。

2020年 ひとりじゃない-You’re not the one-

NODA CONTEMPORARY(名古屋) 2020年11月13日〜12月5日

 画面の肌理が粗いだけでなく、絵具の塗り残しやはみ出し、汚れ、流れ落ちる絵具が際立ち、また、キャンバスの物質感があらわになることによって、描かれた映像のレイヤー、その下層のキャンバス面を意識させる。

 つまり、映像データをモチーフにしながら、絵画の本質が剥き出しになっている。

 この荒れたレイヤーの重なり、絵画を絵具の層として強く意識させるのが上野さんの作品の特長である。

上野英里

 海外のドラマが好きで、英語を勉強。2017年に3カ月、英国・ブライトンに留学したときは、天井桟敷のような安い席でロイヤル・ナショナル・シアターなど生の舞台を見ていた。

 当然、舞台まで遠いので、俳優の顔も細かな演技も見えない。こうした経験もあるからだろうか、上野さんは、複数のカメラ、卓越したカメラワークで、アングルや画角を絶妙に変化させた高画質の舞台映像より、定点カメラで撮影したYouTubeの映像に、より本物の舞台を見た記憶に近いライブ感を感じてきた。

上野英里

 つまり、YouTubeなどで見る映像の方が、離れた席から遠くの舞台を見る感覚に近い。YouTubeの粗い映像では、明瞭に見えすぎることがなく、薄暗い照明では、人と人、人と背景が溶け合い境界線が曖昧になる。

 この感覚体験を、上野さんは大切にしている。

 筆者も小劇場演劇が好きなので分かるのだが、確かに実際に劇場で見る舞台では、照明が暗いことが多く、ハイビジョンで録画された映像ほどに人などの明瞭な輪郭がない。

上野英里

 むしろ、人と人、人と舞台美術がうごめくアンフォルムなイメージの連なりに見えなくもない。それをアップにして、くっきりとした輪郭で映せば、舞台の魅力はなくなる。

 ハイビジョンの舞台映像と、劇場で見る舞台は別物である。

 上野さんは、そうしたYouTube映像をスクリーンショットで撮影。Photoshopで編集する。

上野英里

 主題を決めてファーカスし、明暗、色調を整えた後、いったん白黒に変換して、それをプロジェクターでキャンバスに投影する。 筆者は、タブレットを見てそのまま描くと思っていたが、綿密なプロセスがあるのである。

 まず、投影したイメージを頼りに、大まかに形をなぞりながら、画像を見て描く。

 テレピン油で形を抜くような作業によって、薄い皮膜のような面を1つ目のレイヤーとし、次に形を整えながら、ストロークやマチエールによって、2つ目のレイヤーを重ねる。

 さらに絵具を載せつつ、余分な絵具は使わず、引き算の発想で仕上げていく。これが3つ目のレイヤーである。

 興味深いのは、上野さんが、人間(俳優など)の体の形、顔を描くという意識でなく、プロジェクターによって、キャンバスに投影された人間と人間、人間と背景の境界が溶けるような瞬間、人間とはいえない形、アンフォルムなイメージ、不明瞭な形象を描く意識で、絵具を定着させていることだ。

上野英里

 これは、上野さんの作品の中で、とても重要である。物理的な身体とアイデンティティーをもった人間でなく、渾然とした映像を描いているのである。

 映像をモチーフとしながら、明瞭性はない。荒れた画像、不調、汚れや、しみなど、不鮮明な画面からは、どこか不穏な雰囲気が立ち上がる。

 それは、フィルム・ノワール のような虚無的、悲観的、退廃的な空気と言ってもいいし、何か事件が起こりそうな雰囲気と言ってもいい。

 その不穏さは、キャンバス面の露出、乱雑に切断したキャンバスの歪んだ矩形など、絵画の中の主題、物語に容易に没入させない上野さんのしたたかな方法論からも来ている。  

 上野さんは、演劇やミュージカルの場面を中心に描いているが、おぼろげな映像の中の人間は、俳優やダンサーとして見る者にこびることがない。

 むしろ、そこにあるのは、俳優やダンサーの存在を超えた不気味さ、説明できない空気なのである。

上野英里

 その意味では、まさに演劇を描きながら、YouTubeなどのタブレット画像を基にしたそのイメージは、鑑賞者を意識することがなく、「反演劇的」なのである。

 始まりも終わりもなく、演劇の1場面ですらない、俳優ですらないのかもしれない。

 身体性と個性をもった俳優でも、観客にこれ見よがしに演技を披露する存在でもなく、ただ単に、絵具のレイヤーが重なる不穏な絵画性である。

上野英里

 これは、絵画の主題、舞台のタイトル、場面や物語から目を逸らし、絵画を見せようとする上野さんの思惑通りである。

 このことは、おそらく、上野さんの演劇の見方、世界へのまなざしと一脈通じている。

 上野さんは演劇やミュージカルが好きだが、それらの甘美な世界に酔う、できすぎたハッピーエンドの物語に没入するというよりは、アイロニカルな視線とともに分析している。

上野英里

 物語の中に没入させることなく、文脈から切り離された1つのイメージとして、洞察を深めている。

 全てが明快な舞台でなく、人と人の境界が混じり合うような荒れたアンフォルムな舞台、完璧なセットでなく、何もないところで見えないものが蠢く空間を通じて、人間について考えている。

 演劇の場面でなく、人間、群衆がただの素材となって、つまり人間らしさ、群衆らしさもなくなって、もやのようなもの、そのレイヤーの重なり、絵具、色彩、形象、線そのものの戯れに見えてくる。

 だが、同時に、それだけだろうか。

 筆者も舞台が好きである。だが、面白ければいい、楽しければいいという意味でのエンターテインメントとしては見ていない。

 予定調和的な甘美な物語、はっきりしすぎた輪郭の個性豊かな有名俳優、エレガントな世界でなく、ピーター・ブルックの言うところの「なにもない空間」から立ち現れる、内面を揺さぶる何か、不鮮明ながら、どきりとさせるもの、普段見えない世界を開示させてくれる何かを求めている。

 上野さんの作品に感じるものは、見る人によって異なるだろう。それは、優れた舞台と同じである。その何かは、見る人に開かれている。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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