富山宣子絵画展 Gallery NAO MASAKI(名古屋)  6月27日まで

Gallery NAO MASAKI(名古屋) 2021年6月12〜27日

富山宣子 Noriko Tomiyama

富山宣子

 富山宣子さんは1943年、三重県松阪市生まれ。中学時代に出会った美術教師の影響で絵に目覚め、以来、三重県を中心に活動している。

 松阪市を拠点に名古屋や三重県内で発表。このギャラリーでは2008 、2010、2013、2016、2018年と、繰り返し個展を開き、ファンを魅了してきた。

富山宣子

 心のうちを定着させたような画面に、富山さんは美しいものを求めているわけではない。くすんだ色彩、画面に広がる数多くの傷や、汚れたような表面・・・。

 だが、画面の肌理と色彩には品位があるのだ。美しく澄明な世界ではない。富山さんが生きた時間が堆積し、そこには祈りが込められている。

富山宣子

 「壁」をモチーフに描いているようにも見えるが、キャンバスやパネルの側面もしっかり塗り込んであるためか、作品がそのまま土壁、陶板のようにも見える。

 土っぽい質感は、瞬間、心の赴くままに筆を動かした作業の積み重ねであって、そこに意図的なものはないように思える。

富山宣子

 富山さんにとって、描くことが生活であり、生きている証であり、そうした絵具を重ねる刹那は、過去と未来をつなぐ時間、記憶、存在の痕跡である。

 78歳になる現在まで、育児などで時間がとれないことはあっても、原則、毎日、筆を握って油絵具を塗りこめてきた。

富山宣子

 以前は、団体などにも関わったようであるが、もう長い間、1人で画面と対話するように描いてきた感じである。

 筆者は、こうして描くことを自分が生きることに重ね、地方で黙々と制作を続けている富山さんのあり方にとても共感している。

富山宣子

 日々、油絵具を塗り重ねた絵画は、個人的な出来事や、身近な人の生死、感情が堆積した時間と記憶、存在そのものであって、そこには、それらを包み持ってくれる寛容さ、ぬくもりのような質感が感じられる。

日々 Days 

富山宣子

 富山さんの絵画の深い色彩は、特別な技巧による個性が強く押し出されたものではない。

 むしろ、キャンバス、あるいはパネルに絵具を重ねては布で拭き取ったり、削り取ったりした後、また絵具を塗り込めるという作業を淡々と続けている。

富山宣子

 そこでは、日常の喜びや温かさ、憂い、悲嘆などの心象が日々込められ、傷のような痕跡がおびただしく交錯した土壁のような物質的な存在感と深く変化に富んだ色調を生んでいる。

 筆者は、この言い尽くせない複雑な色彩の深みと素朴な質感、光と闇が静かに長い時間をかけてしみこんでいったような味わいに、たゆまなく続く人間の刹那な生の意味と祈りをを見る。 

富山宣子

 つまり、日々の瞬間を生きる人間の呼吸と感覚、心の響きがこの画面に降り、そこをよすがとしているようなのだ。

 時間をかけて描き、期間をあけて、また描き始める。10年以上をかけて描かれた作品もある。

富山宣子

 それは、家の中で、壁が長い間、そこで暮らす家族の出来事、歴史を見てきたかのようである。そうした小さな感情が肌理や色彩となって現れている感覚である。

 長い年月を経て、おびただしい痕跡がつき、変色した壁、あるいは、使い古した昔の小学校の木製机の傷だらけになった表面に似ている。

富山宣子

 具象絵画ではない。無対象の絵画で、一部は矩形などが見えるが、大半は痕跡とシミのようなものが覆った「壁」である。

 富山さんは、支持体であるキャンバスやパネルを前に、「壁」と対話するように制作している。

富山宣子

 刹那に生き、その瞬間に描いた痕跡、富山さんの思いは、次の瞬間には、もう過去のものとなっている。

 こうして、富山さんの「壁」のような絵画には、過去の時間、記憶、つまりは人生の味わいと苦みがリアリティーとして生き続けている。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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伝えること、文化芸術とメディアについて

1980年代から、名古屋、東京、関西で文化芸術を見てきた。新聞文化面、専門雑誌、「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、自ら新聞文化欄を編集、美術、映画、演劇などの記事を書いてきた。2000年代に入ると芸術批評誌を立ち上げ、2019年にはWEBメディアを始めた。文化芸術とメディアの関係、その歴史的展開、メディアリテラシー、課題と可能性、レビューや伝わる文章の書き方、WEBメディアの意義、構築方法について、若い世代に伝えたいと考えています。

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