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高柳恵里 それは、正確であるか

See Saw gallery +hibit(名古屋) 2019年9月10日〜10月26日

山本 さつき(美術批評)

 高柳の作品が現実的には主体による構造化や造形によるに違いないとしても、作家自身の言葉としては「もの」があたかも自分の意志でそうなっている、そう選びとっているといった話法を多用することに、筆者は長らく悶々としていた。本展初日に行われたトークイベント(高柳恵里×南雄介)でも、やはり気の揉めた部分はそこである。質疑応答では、高柳の作品のもつ彫刻原理的な要素について触れた質問者に対し、高柳は「ものはそのようにしたいのではないか」といった、あくまでも「もの」を主体とする答え方をやはり貫いたのだった。

 このような高柳の語法については、それを擬人法と捉えての解釈を蔵屋美香が行っている(作品集『高柳恵里』2017年、発行:上田剛史/タリオンギャラリー)。これによれば、言語学上、擬人法と擬物法は表裏の関係にあり、ひとつのテキストがいずれにも読める、つまり人と「もの」が反転する場合があるという。そうなる場合というのは限られてはいるが、可能性としては、「もの」がそうするとは高柳がそうすることであり、返して高柳がそのようにしたいとは「もの」がそのようにしたいということでもある。高柳の制作態度や方法論を紐解く上で非常にユニークな着眼である。ところで、この論述に参照された文献(坂本勉「擬人法または擬物法ーあるいはラングとパロールの相克」九州大学編『文学研究』第1巻第20号、2005年)は、ラングとパロールのダイナミックな関係に触れて結ばれているのだが、この関係もまた、高柳の制作を考える上で有用である。すなわち高柳の制作の初動は、パロールがその規範であるラングを突破し、それを更新していくという弁証法的な関係を体現するかに見えるのだ。

高柳恵里
《自由な電飾》

 今回、展示された《自由な電飾》は多量のイルミネーションライトを空間の壁床に配置した作品である。この、電飾でしかないが見慣れた電飾とは別もの、という塩梅は、まさしくそのような関係から生まれる。これはこういう道具であるとか、こういう意味を持っているといった文化的・慣習的な視線は電飾を縛りつけるが、電飾はそうした視線を超え出る契機を投げ返す。その形状や成り立ち、どういった動作をし、その運動エネルギーはどこから得られ、またそれを人はどのように用いるのかということ、また、そうではない自由やそうしない自由も含み置いて、高柳は観察する。このとき、高柳は電飾に対峙するというよりは、電飾だけでなく自身をも縛る視線と向かい合っており、ここで獲得される新たな視線のもとで電飾は自由を得る。だからこそ、その自由は高柳の自由でもある。言語学においても、またここで述べている制作の局面においても世界の見方を規定するものとしてあるラング (慣習)に対し、「もの」と作家の出会いの中で生まれた柔軟で主体的な実践としてのパロールがそれを更新し、あるいはそれを再構成するのだ。

高柳恵里
《レンガとブロック》

 この経過を経て、高柳は次の局面に移行する。それが今展示のタイトルでもある「正確であるか」という判断であり、制作上の肝ともいうべき点だ。今回、もっとも率直にその要点を見せているのは《レンガとブロック》だろう。この作品を高柳は「レンガとブロックのサンプルを、庭の真ん中付近に設置して眺めてみる。」と解説しているのだが、アンダーラインを引くべきは「眺めてみる」の部分である。まるで、取り寄せたサンプルを庭に似合うかどうか置いてみた、と言わんばかりの日常的な物言いの中に、作家の方法論の核心が存在することが非常におもしろい。《的確な決定》をはじめとする3点の写真作品では、アングルやトリミングという要素が加わり、さらに同一被写体の異なるカットが並置されていることで、そもそも「もの」のあり方や「もの」同士の関係にも潜在する作家自身の判断のタイミングや選択眼が否応なく突きつけられてくる。

《的確な決定》

 判断という局面に高柳の制作態度や方法論が集約されていること、またその局面に対する高柳の誠実さは、作品の性質上、鑑賞だけでは理解しづらいものだが、作家の言葉として紡がれた時にはよもやの明快さがある。もちろん、冒頭で述べたように高柳の語法は難解である。難解ではあるが、主体の選び方に注目するなら例外はあるにしてもある種の法則性が見出せる。まずは「もの」を主体とした表現であるが、制作の中で「もの」に対して行われる介入には、つまり動かしたり配置したりといった作家が行為の主体となる部分には大きな力点がないこととよく結びつく。返せば、このことは高柳が「わたしは」という主語ないしは行為の主体をしばしば伏せたままにする理由ともなる。そもそも日本語にはただ主語を省略するにとどまらず、動作主がはっきりしている場合にもそれを言明しない語法、たとえば「(わたしは)探し物を見つけた。」でなく「探し物がみつかった。」を好んで用いる傾向がある。付け加えるなら、事実としては目的語が動作主の場合に、主語を人として能動態を用いる語法、たとえば「雷鳴に驚かされた。」ではなく「雷鳴に驚いた。」をしばしば用い、そのうえ自動詞/他動詞の区別の曖昧さもあって、主語/目的語で体系化できない。また一説によれば、このような文法的には不分明な語法には、話し手の立ち位置、目線が反映されているのだという。

 このように人と「もの」とが容易に混線する言語的特徴をフルに活用して、自身の制作態度や方法論を可能な限り正確に表そうとする、つまり現実のパロールにも誠実であるのが、高柳という作家なのではないだろうか。

高柳恵里
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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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