名古屋のカルチャーWEBマガジン「アウターモーストナゴヤ」では、レビュー、リポート、トピックスなどを掲載します

アジアの美術、遠いアイデンティティの傷について

というのも、モーセはエジプト人であり、したがって彼は、そのアイデンティティの内部で夥しいまでに数多くの事どもがそうしたアイデンティティに抗い、その結果、アイデンティティが傷つき、そしてついには、かかるアイデンティティという内部を創りあげた当の本人であるにもかかわらず、おそらくは、彼に対する凱歌の声さえ挙げたであろうこのアイデンティティの外部に、かかるアイデンティティの内部としてつねに立ち尽くしているからです。(エドワード・W・サイード『フロイトと非ヨーロッパ人』)

九月、遅ればせながらベネチア・ビエンナーレを見てきた。全体的に停滞したムードに覆われていたが、とりわけアジア、あるいは非西洋圏の美術の潜在力に期待している向きには、ある種の閉塞感を感じさせたのではないだろうか。日本、韓国がジャルディーニにパビリオンを持ち、初の公式参加となった中国が、蔡國強企画による展示をアルセナーレに展開させ、またそれらとは別に、これらの会場外、つまりベネチア市街の各所にも、台湾、シンガポール、タイ、インドネシアなどの東南アジアや、アフガニスタン、イラン、トルコ、ウクライナ、あるいは中央アジアの新参組が作品を展示している。だが、緊張感ある展示で一頭地を抜いていた石内都はじめ、ジュン・グエン=ハツシバ、ルナ・イスラムなど一部を除けば、多くのアジア関係の作品の中で、記憶に残る力作には出合うのはなかなか困難だった。それらは、ときに未踏地へ分け入ったようないくらかの興味を誘発させはしても、あるいはそれらが一定水準の質を維持していたとしても、そうした感興の中に若干の違和感のような感情を混じり込ませてしまうのだ。
例えば、カザフスタンの女性作家アルマグル・メンリバーエワの映像インスタレーション。土を敷き詰めた床面に点在させた数台のモニター画面が、裸のアジア人女性の儀式的パフォーマンスを映し出す彼女の作品の違和感とは、映像という現代の主流をなすメディアと、前衛的な身ぶりをもつストレートな土着的/前近代的表象との亀裂のようなものなのだが、それはもちろん両者の本質的な相性の悪さを言っているわけではない。グローバルな資本主義経済の恩恵を受けたそれらの作品は、先進諸国と変わらない映像媒体を駆使した上で、そこに「アジアらしさ」の生硬で固定的な表象を直截に張り付けてくる。そこには、無意識的な民族性、風土性、歴史性をはらんだ個人の生を、人間の普遍性に接続させようとするときの葛藤が感じられないし、一筋縄ではいかない自身のアイデンティティ(サイード的に言えば、アイデンティティの外部に疎外された内部)への問い掛け、そして、現実的な資本の広がりへの問題意識が欠如しているように思われた。つまりは、あまりに無警戒なしどけなさが作品の中にあって、ある種のアジア性、民族性、土着性が映像作品の中でイラスト化している。ただ自分の所属する文化の表層を提示だけはしてみたというだけで、世界を飲み込むグローバリズムへの洞察と懐疑が欠けているとは言えないだろうか。
多くの非西洋圏の美術が、先端の映像媒体を採用していることからも明らかなとおり、グローバル資本主義は世界をシステムとして覆い尽くしている。より広範で強力な文化勢力が他の領域を侵食すれば、当然、多様なローカル文化との間で摩擦が起こりうるはずなのだが、それに対して懐疑なく盲目であれば、仮に結果として文化の混交の可能性があったとしても態度としては受動であろうし、他方で、所属する文化のアイデンティティのはらむ問題を洞察せず、グローバル資本主義を括弧に入れた上で、対抗的に「アジアらしさ」を主張するだけなら、薄っぺらな多様性に陥る。グローバリズムの社会と経済、アイデンティティが内在させる矛盾を考えず、多文化主義のスタイルだけをなぞった結果である。
サイードは、『フロイトと非ヨーロッパ人』の中で、フロイトが『モーセと一神教』で取り上げた、ユダヤ教の創設者モーセのエジプト人説と、ユダヤ教の非ユダヤ的源流について考察した上で、表層のアイデンティティとは異なる他者を古層から掘り起こすフロイト的考古学について思いを巡らし、イスラエルの法律がこうした複雑なアイデンティティの階層を抑圧、排除したのだと説いていく。アイデンティティの階層間の葛藤、自己の内奥にある他者の痕跡を無視した「アジアらしい」表層の明証性が、ある美術の表現にあるとき、そこにある種の抑圧が作用するということはありえないことではない。直感的に正しい民族色や日本らしさ、あるいは、西洋が好む非西洋の単純化されたイメージ構造の予定調和的文脈化が多くの真実を隠蔽しうることは、村上隆の戦略的表現を見れば明らかだろう。他者が本当に他者であるとは、自己の予測を超えたものだということなのである。
「アイデンティティは、それ自身だけでは、思考されえない、あるいは作動しえないのです。すなわちアイデンティティは、根源的に起源的に断絶あるいは抑圧されることのない瑕疵をともなうことなく、みずからを構成したりあるいは想起したりすることができないのです」とサイードは言う。これに倣えば、優れた創作者にとって、決してその痕跡が消え去ることはない遠いアイデンティティの瑕疵、すなわち傷の自覚こそが、創造へと彼をかき立てるものだと言ってもいいはずだ。実際、李禹煥の言葉—「(私は)一方では逃亡者として他方では侵入者としていつも共同体の外に立たされているのだ・・・(中略)・・・つねに移動を強いられる居心地の悪い場所は悲しいが、それが私を奮起させ、未知の生きた世界に導いたこともたしかのように思う」—は、そのことを裏付けているように思う。
 ここで言いたいのは、単なるグローバリズムによる均質化でもなく、表層の多様性でもなく、相互の文化が切り結ぶ間隙の領域にこそ、そして、幾重にも諸要素が堆積し、傷ついた解決不能なアイデンティティの揺らぎの中にこそ、つまりはサイードがいう、アイデンティティの外部に立ち尽くす内部という自覚にこそ、真に優れた表現の源泉があるのではないかということだ。
もともと多文化主義がグローバリズムと表裏の関係にあることに注意する必要がある。グローバリズムによる世界の隅々への干渉的まなざし、世界のフラットな感覚がなければ、「多文化主義」は存在しないのであって、多文化主義それ自体は、それだけでは欧米からの視線の産物そのものなのである。それゆえ多文化主義だけを世界システムから切り離し、個々のアイデンティティに安住するところから力強い表現は生まれないだろう。例えば、何らかの非西洋の美術作品が欧米で評価されたとしても(というより、評価されたがゆえに)、グローバリズムの力がその作家のアイデンティティの傷跡を抑圧的に塗りつぶしている可能性があることには自覚的であっていいだろう。欧米の価値判断に基づいて評価すること、あるいは欧米の美術市場で多様な売り出すことの難しさはここにある。
第六回ヒロシマ賞に選ばれ、今年七月二十三日から十月十六日まで、広島市現代美術館で個展を開いたシリン・ネシャットはどうか。彼女の場合、イランというイスラム圏から十六歳で米国に移り、再度、故国に戻ったという経歴を持ち、イスラム世界の社会意識と現実を、強固なまでに制御された詩的かつ神話的な映像で構成し、高い評価を受けてきた。その完成度はすこぶる高く、強度と訴求力を持っているのだが、過去の一連の作品では、その確たる枠組みを提示するために、西洋からみたイスラム世界のイメージを美的に象徴化、単純化しているゆえに気にならない点がないわけではない。
西洋が非西洋の美を崇拝することが、前者による後者の後進性を見下す態度と相補的に撞着していることを指摘したのがサイードである。そしてまた多文化主義も、政治経済的に優位性のある欧米からの視線によって地域文化を尊重しようという逆説的態度にほかならない。「最も植民地主義的な態度は、相手を美的に、且つ美的にのみ評価し尊敬さえすることなのである」(柄谷行人『定本柄谷行人集4ネーションと美学』)。スラヴォイ・ジジェクが『厄介なる主体 政治的存在論の空虚な中心1』で書くように、多文化主義は他者のアイデンティティを尊重する態度を表明するものの、その他者とは、彼らが特権的な普遍者の位置に就いた上で、安心して突き放すことができる(距離感を保てる)、自己囲繞した共同体であって、現実的な他者ではない。それは、いわば好奇の対象となるような人畜無害の儀式や儀礼、非西洋の古来の伝統文化や知恵といったたぐいのものである。非西洋の特異性を尊重する多文化主義が、西洋自身のヘゲモニーとセットになっているのは、ベネチア・ビエンナーレの賞レースやパビリオンの配置など、その在り方からも周知の事実である。
アジア、あるいは非西洋の美術がありうる一つの方向性は、美的な対象としても社会的な存在としても認識されえない個々の人間、そしてそうした人たちのアイデンティティの傷や文化の間隙への洞察をより深めていくことだろう。もっとも、相互の文化が切り結ぶ異種混交性、多様な文化領域間の移民的な往来に期待するのはいいとしても、ジジェクは、そうしたディアスポラの主体自体が、知識層か最底辺かどちらかの社会政治的な極に分離して凝集してしまっているのだと注意を喚起する。つまり、知識層がこうした問題を単純化した美的イメージとして発信すれば、排斥された底辺の人たちの苦痛と絶望、恥辱の体験が賞賛の対象として、グローバリズムの表現の餌になることさえありうるということだ。アイデンティティや何らかの統合が、必然的に何かを排除することなしには成り立たないとすれば、グローバリズムによって差異が極小化し、表層的な多文化が世界に行き届いた今、そうした統合に懐柔されたものではなく、こぼれ落ちていく残余の閾に注目すること、つまり本当の意味で最も弱い者に目を向けた公共空間を問題にする以外にはないだろう。そうしたアイデンティティの固有の秩序から取り残された残り、排斥されたものの矛盾の場からこそ普遍性を考えることが求められてくる。
島国日本には、こうしたアイデンティティの複雑な階層化とその亀裂はないのだろうか。沖縄、在日、アイヌ、日系ブラジル人移民などは言うに及ばず、自身のアイデンティティの階層を掘り起こしていくのであれば、そんな強弁は許されないだろう。サイードが言及しているのは、何もパレスチナ/イスラエルだけではなく、現代における人間の普遍的な存在条件としての在り方である。「膨大な人口移動、避難民、亡命者、国籍離脱者と移民が氾濫するこの時代において、自分の共同体の内と外の両側に同時に生きる人びとの、ディアスポラな放浪と未決のコスモポリタンな意識にもまた、そうしたことが探しだせるはずです」(サイード『フロイトと非ヨーロッパ人』)
日本のように最も限定的で、同一性を確定しうる不変な共同的アイデンティティがあると思われるところにさえ、内在的な限界があること。そして、その限界がただ一つのアイデンティティに統合されることを妨げていることーアイデンティティには常にその構築と同時にそれを内破する他者がいることを自覚しないと、美術表現もまた、より高い次元にはいけないのではなかろうか。現に優れた表現者はそれを実践しているようにも思える。
 本稿は芸術批評誌「REAR」(2005年12号)に掲載したものに加筆修正したものです。