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直野宣子さんの絵に思う— 名古屋画廊の個展「Washable Blue-永遠のゆらぎの中で」

名古屋画廊(名古屋)2019年10月2〜12日、市川政憲(元愛知県美術館長,元茨城県近代美術館長)  

 個展の案内が届き、写真の絵を見ながら、一年前に画廊で見た絵がどんなであったかを想い出せないでいる。いま手にとる写真の絵が、あなたの絵であることに頷きながら、なんとも歯痒い。そして、この「想い出せない」ということについて考え始める。

 あなたの絵を、記憶できない絵、と言ってみる。想い出せないのは、記憶に「刻まれない」からだと。記憶ということ自体が問われてもくる。脳に刻まれるのではなく、眼に記憶される、眼の感覚としての記憶ということはないか。〝washable〟。「洗い流せる」、とは眼の記憶なればこそ、何とも言えず脳への労わりが聞こえてくる。私たちの脳は、刻まれる記憶で傷つき硬直化するばかりだから。あなたの絵が脳に「刻まれない」のは、他でもない、色彩により、主題やモチーフ、或はイメージに頼るところがないからだ。色彩は、眼に「触れ」、脳に記憶されないもの、そもそも記憶できないのだ。だから想い出そうとしても再現(再構築)不能。

 色彩は眼に「触れる」。あなたには朝が見え、春が見えていることでしょう。それは誰にも見えている、だから言葉があるのだが、ココにアソコにあると指差せないから、見えるという実感に意を払わずに、朝を「感じる」とコトバを濁す。そうしてしまうと思考は動かない。朝は間違いなく見えている、透明に眼に触れ、それを呼吸してもいる。その証拠に、この束の間の、夜と昼の境界は、日が顔を出すや見えなくなる。見えなくなるのは、私たちの意識が昼の理性に切り替わるから。記憶の負荷に疲弊した頭脳の視覚は、限りある、形をとってココ、ソコにある「もの」しか見ようとしない。朝とは、私たちが、あらゆる生き物が生き得る、限りなく開かれて、時の外にある世界の純粋な現われとしての透明な空間。隔たりではなく、親密に開かれて在る純粋空間。しかし、他の動物たちと違って、時の世界に、限りを知って生きる私たちだけが、微かな変化のなかにも感知する「あるもの」がある。その影が、透明な純粋空間を色づかせる。だから、「朝」にしても、季節を表わす言葉にしても、何かしら移行の感覚を帯びている。だが、何処へ? 花は、色は、「時間(とき)はゆっくりと落ちていく。」

 対立と閉鎖と限定と別離の、時の世界で、向かい合う運命の理性は、この親密な透明な「空間」を隔たりとして、物を見ようとする。だが、ものを「見る」と言っても、どこまで向き合えているだろうか。記憶の負荷に疲れた知覚でただ習性的に眺めているだけのことではないか。だから、向かい合いを「写実」とか「即物的」と言葉を重ねざるを得ないのではないか。実在するものの表現とは異なる、開かれた自然の純粋な現われ=空間の表現に用意された言葉が、「写生」であろうが、ものに頼らぬ写生を実感させられたことがあっただろうか。

 あなたの絵を想い出せないのは、全き写生であるからかもしれない。想い出せないのは忘れてしまったからではない。そもそも脳に刻まれることのないもの、眼に触れる、私たちの外に開かれた全き世界の入り口であるからではないだろうか。色彩は刻まれない。刻まれないから風化しない。眼の記憶は、風化するはずもない開かれた世界の「風」が孕む振動に甦る。直野宣子の絵はイメージ/記憶とは袂を分かつ全き写生。

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