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水戸部春菜 gallery N(名古屋)で8月8日まで

 gallery N(名古屋) 2021年7月24日〜8月8日

水戸部春菜

 水戸部春菜さんは、1995年、神奈川県生まれの若手。2018年に東北芸術工科大学デザイン工学部グラフィックデザイン学科を卒業したばかりである。

 とはいえ、galleryNでの個展に限らず、「群馬青年ビエンナーレ2021」、「第23回岡本太郎現代芸術賞」(2020年)への参加や、西武渋谷店(2021年など)での展示など、ここ数年、精力的に発表を続けている。

 今回の個展の初日にも、東京からファンが多く訪れるなど、人気があるようである。

 水戸部さんは、従来は、人間の行為を、ずれを伴うような多視点な黒い線によって描いていた。

水戸部春菜

 ドローイング的な要素が強く、線のしなやかで躍動感のある重なりと速度感、肥痩のバランス、余白に線が入り込むときの緊張感と構図の妙が魅力である。

 人物の動きの連続写真のような表現は、近代化の中で対象の運動性を描こうとした未来派や、マルセル・デュシャンの《階段を降りる裸婦》を連想させる。

 ただ、水戸部さんは、こうした運動のことを「状態」といい、そこに人間の本質に迫る契機があるとしている。

 この「運動」と「状態」の違いが、筆者も確認できていないのだが、水戸部さんは、未来派のように「動き」を表現したいのではなく、その行為の状態から見えてくる、人間が存在することの不可思議さ、立ち現れることの現象そのもの、その愛おしさを浮かび上がらせたいのかもしれない。

水戸部春菜

 人間の本質を完全につかむこと、全てを知ることは神にしかできず、描くことでは到達できないということに水戸部さんは無意識に気づいているのではないか。

 仏教でいえば、見ているものも、立っている視点もみんな違うのだから、固定した姿形を「正しい」と判断する執着を離れることが逆説的だが本質に近づくことである。

 それが、人間の行為を動いている状態として表現する水戸部さんの方法論につながっているのではないか。

 そうした人間像は、絶対性を否定すること、すなわち、肉体、精神をもちながらも、確たるものとして規定できない非実体的存在としての捉え方であって、「空」に近い。

 それゆえ、水戸部さんは色彩を使わない。色彩を使って人間の姿を確定する度合いを深めると、本質から離れるような気がするのではないか。

 過剰な色彩による映像がインターネットなど日常に氾濫し、かえって本質が見えなくなった時代に人間の本質を見いだそうと、見えないこと、分からないことを承知のうえで、自分の見ている嘘のない姿を模索しているともいえる。

 人間の姿かたち、こころのかたち、その本質を、水戸部さんの感覚によって、人間の行為を線と余白、動き、視点の変化というシンプルな視覚情報のレイヤーを重ねることによって、再構成するのである。

town

水戸部春菜

 そんな水戸部さんが今回、パネルに、砕いた木炭を貼った新作シリーズ「town」を発表したことは、訪れた鑑賞者を驚かせた。テーマは、広島、長崎への原爆投下である。

 とてもストレートな表現である。

 水戸部さんのステートメントによると、中学生のとき、社会科の授業中に教員が回覧した被爆の記録写真を見ることができなかったこと、悲惨さから目を背け、拒絶したことの遠い記憶が、作品の起点になっている。

 水戸部さんは、十数年前の記憶がトゲのような痛みとして長く心の中にあった。2021年になって広島を訪れ、被爆した建物や壮絶な記録資料を目にした。

水戸部春菜

 筆者は、初日に開かれたトークの後、感想を話す機会をいただいたので、アドルノの「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」や、クロード・ランズマン監督の映画「ショア」などを例に挙げ、今回の発表は発表として、もし、今後も原爆をテーマにするなら、時間をかけて制作することが望ましいのではないかと述べた。

 つまり、原爆のような世界史上まれにみる悲惨な出来事をテーマにするからには、表象不可能性と向き合うことを意識せざるを得ないと言いたかったのだが、ファンやコレクターの皆さんからは煙たがられたかもしれない。

 人間の精神的活動さえも商品となって流通・消費されることを考えると、文化や言論が野蛮になりうることに、表現する者は意識的であっていいはずである。

 トーク後の交流会で、水戸部さんとゆっくり話す時間をいただいた。水戸部さんは、とても真摯に作品と向き合っている人で、筆者が1990年代に取材した阪神淡路大震災の記憶の継承の問題や、原爆を題材とした広島での美術の取材、東日本大震災をテーマに活動を続ける小森はるかさん + 瀬尾夏美さんなどについて触れると、熱心に聞いてくれた。

水戸部春菜

 また、水戸部さんも、戦争に関わる悲痛な親族の記憶や、学生時代を過ごした東北に、東日本大震災で家を流されたり家族を亡くしたりした友人がいることを聞かせてくれた。

 記憶の継承は難しく、美術、芸術作品が悲惨な歴史を表象することの困難さもある。また、痛みを伴う歴史や事件、あるいは加害性と向き合うことを人間は忌避しがちである。

 水戸部さんが、あえてこうした方向に踏み出した意義は大きい。筆者は、遠い昔、LEDデジタルカウンターの作品を展開していた宮島達男さんが、長崎市の原爆をテーマにした「時の蘇生・柿の木プロジェクト」を始めたころ、長崎まで取材に出かけたことを思い出した。

 水戸部さんも、人間の存在をテーマにした絵画と、原爆を取り上げた今回の作品が今後、より密接につながりをもつときが来るのかもしれない。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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