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原菜摘 ANIMISM ギャラリーラウラ(愛知県日進市)で2025年11月13-27日に開催

ギャラリーLaura(愛知県日進市) 2025年11月13〜27日

原菜摘

 原菜摘さんは名古屋市生まれ。愛知県立芸術大の彫刻科を卒業している。

 かつて、芸術至上主義から闇の世界を追究し、健康を害した時期がある。表現方法が絵画から写真に変わり、2020、2021年のギャラリーラウラでの個展では、花の写真を展示した。

 近年の変化は、闇の世界から自らを解放し、花という自然の色、形という自然の創造性や摂理、ひいては、自然の神秘と大きな生命の恵みを絵画的、彫刻的な写真へと写し取ったものだったが、前回2023年の個展では一転、モチーフが自分で作った料理や食材などへと展開した。

 筆者が個展で作品を見るようになったのは5年ほど前からだが、作品はその都度変化し、闇からモノクロームを経て豊かな色彩へ、自我への埋没から身体感覚へ、死から生命へ、個から全体性へと向かっている。

 人間は、他の命を食べること、つまり、世界からいただくことで生かされている。原さんの作品ではモチーフは変化していても、人間という存在を生かしている世界を捉えようとしている点で一貫している。今回の個展では、アニミズムへとさらなる変貌を遂げた。

ANIMISM

 写真作品だが、作家は「絵画」と言っている。細かい手法は分からない。水槽の中で絵具を攪拌し、それを写真に撮影している。つまり、支持体が「水」という言い方もできるかもしれない。実際に作品を見ると、絵画のような力強さを感じる。

 原さんは原因不明の体調不良に対して、当初、西洋医学によって対治しようとしたが、うまくいかず、自然療法や自然と一体化する方向を選ぶことで、宗教的な受動性、自分を宇宙に溶解させる身心脱落のような感覚へ近づいていった。

 水の中に広がる絵具は、作家である原さんが直感として、きっかけを与えることはあっても、自分だけで完成させた作品ではない。流れ、漂い、膨らんでいく瞬間の徴は、「描いた」ものではなく、「現れたもの」「やってきた」ものなのである。

 自我に対して、無我である。実体のない、縁起の法によるその瞬間の現象である。水の流れに任せ、自分から離れ、構築することによる邪念を手放す。

 頭を空っぽにすること、非思量、無分別になることでもある。物事を整理して、分けて、分析して考えるのではなく、むしろ言葉や概念でないこと。線形性、すなわちコンピューターにも通じる二分法、二元論でなく、非線形性に向かうことである。

 縁起の法では、世界、宇宙のあらゆることがつながりあって、その瞬間、瞬間に変化していく。原さんの絵を見て思うのは、そんなことである。それさえも瞬間の無常な、はかない相でしかない。絵具の原料である鉱物が大気のように漂流するような画面である。

 水槽の水の中で絵具を攪拌し、その瞬間を捉えることにおいては、彼女が言うように、行為の主体は自分でありながら、自分を動かす自分以外の大きなものがある、自分と外界を隔てる境界を超えていくという実感があるのだろう。

 自分を超えた大きないのち、流れとの関係を希求する霊性を、彼女の内なる魂が求めているという言い方もできるだろう。

 欲することを手放し、生かされているように大きな流れに身を任せていくことで得られるつながりと調和。これらの作品は、うつろいゆく隔たりのない世界、気のようなもの、プネウマのようなものを見せている。

 自分をつくっているのは、世界のすべてであり、そのすべてに意味がある。

 依然として、彼女は魂が傷ついたまま生きている。そして、それは彼女一人だけでない。私を含めたすべての人の魂も同じであるが、つながっている実感が救いである。

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