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言上真舟 Clear silence,floating senses. Lights Gallery

Lights Gallery(名古屋) 2020年3月6日〜4月19日

 Clear silence,floating senses—こんなタイトルのついたLights Galleryで2回目の個展である。言上さんは、1984年、福島県生まれ。多摩美術大でガラスを専攻した後、2008年、スウェーデンに渡り、スウェーデン国立美術工芸学校(2年間修士課程)、スウェーデン王立アカデミーでの1年間のプロジェクトを経たのち、欧州や米国、日本などでの滞在制作、展示に参加しながら、今もストックホルムを拠点に活動している。
 今回の新作発表は、スウェーデン政府運営の委員会からプロジェクト助成を受けている。また、富山市ガラス美術館でのグループ展「ミクロコスモス—あらたな交流のこころみ」(2020年2月29日〜6月21日)にも、言上さんのガラス作品が展示されている。周囲の世界と内面との関係を掘り下げながら、ガラスを素材に制作する7人の展覧会だ。

言上真舟

 筆者が、言上さんの作品を見るのは初めてである。以前は、薄い板ガラスの破片をつないでドレスやランジェリー、ハイヒールという女性が身に着けるものをモチーフに制作していた。一方、今回の個展では、ベッドやブランコ、梯子などが題材で、新たな展開を見せている。
 スウェーデンでは当初、言葉の壁があって、板ガラスを発注できなかったことから、捨てられた板ガラスを破砕した断片で制作するようになった。今もそれを続け、額縁用ガラスなどの廃品の破片でドレスやランジェリーを、事故車のサイドガラスの破片でハイヒールを制作する。

 衣服や下着、靴は、その人にとっての嗜好、自信、存在感の現れであるとともに、自分の欠点を補って美しく見せたいという欲望、執着、コンプレックス、不安が形になったものでもあるなど、両義的なものである。
 そうしたイメージは、硬さを伴いながらも割れやすいなど脆く、優美で透明でありながら、ゴミとして打ち捨てられたときはみすぼらしいなど、言上さんの素材としてのガラスの二面性と重なるところがある。また、煌くように美しい半面、破砕されたガラスは鋭く、皮膚を切る危険性もある。
 富山市ガラス美術館でのグループ展のカタログのインタビューにあるように、スウェーデンでの最初の10年間の生活は、言葉や住宅、ビザなどの問題で思い通りに進まないことの連続で、廃品ガラスから身に付けるものへと作品化するプロセスが自身の成長、再生とも重ね合わされていた。また、大地に立つためのもの、歩いていくためのものである靴には、異国で言上さんが作家として生きていく決意のような特別な意味合いがあるのだろう。

 ドレスは、ゴミや額縁店から回収した廃品の板ガラスをハンマーで割り、開けた穴にジュエリーチェーンなどを通して制作。一方、靴の作品は、世界各地の自動車事故現場で集めたサイドガラスの破片を素材に、シリコン系の接着剤でつないでいる。余談になるが、言上さんによると、事故車のガラスの色合いが、ポルトガルでは緑っぽく、ニューヨークでは透明度が高く、アイスランドでは水色っぽいというのが面白い。
 ドレス、靴、ランジェリーのシリーズを続ける一方、2018年から始まったのが、板ガラスをそのまま使った今回の出品作である。ここ1、2年のスウェーデンでの生活の安定によって、廃品ガラスの破片を服や靴へと再構築した従前の作品から、新たな展開へと進んだともいえる。過渡期と言ってもいいかもしれない。梯子、ベッド、ブランコというモチーフに、筆者はどんな思いを込めたのだろう。

 ブランコは、まさに板ガラスをブランコのようにして吊るしているが、一対になっている。おびただしい板ガラスの破片が密集してブランコの座板の上にのっているのが1つ、もう1つは、座板に何もないブランコである。言上さんによると、結晶のような鋭利な破片が蝟集する方が「過去」、何もない方が「現在」という含意である。あまり図式化して語るべきではないが、微細な記憶が結晶化されたもの、直接触れられないもの、美しくも傷みがあるものが過去とすれば、何もないところから人間が今向き合うものが現在という言い方もできるかもしれない。
 ブランコは、子供時代の無垢なるものの象徴でもある。自分を振り返る場所かもしれない。黒澤明監督の映画「生きる」では、がんで余命幾ばくもない市役所課長が生きる意味を考え、残された数カ月の時間を市民から要望のあった公園の整備に注ぐ。その主人公が完成した公園のブランコをこぐ名シーンには、人生そのものが象徴的に込められている。言上さんの作品にも、そんなテーマを感じる。

梯子をモチーフにした作品が2点展示されている。過去と向き合い、未来につながっていく、見えない場所に登っていくイメージである。作品なので当然、登れないのだが、ガラスの梯子はとても張り詰めた危うさがあって、未来へ進むときの不安のような感情とも通じる。希望もあるが、先に進む、未来へと歩きだすときの不安もある。1つは1階の空間、もう1点は、2階の元々の住宅を生かした空間に展示してある。2階の梯子には、ベンチを象ったミニチュア・オブジェが載っていることにも注目したい。

言上真舟

1階には、ベッドをモチーフにした大型作品もある。ガラスのベッドの上には、ミニチュアのガラスのベッド、ピアノのオブジェが置かれている。ベッドは、眠りの場、疲れた身体と心を癒やす時間、無意識へと導く場である。1日が終わり、次の1日に向けた再生の場。梯子が未来に向けて登る道筋だとすれば、ベッドも、ある1日から次の1日へという未来に向けた休息のスペースだろう。

言上真舟

2階に展示された梯子、1階のベッドに置かれたベンチやベッド、ピアノのミニチュアは何を意味するのだろう。見る者は、作品全体を見てから、ミニチュアに目を移す、そして、再び全体を見る。現実のスケール感から小人のスケール感へ、そして現実へというように、空間を行き来する。それは、ふと視界に入る現実空間から夢想の空間へと移行するような時間。触知できる現実からドリーミング(夢見)へと、内的世界へと旅をすることである。格差が覆う現実、新型コロナウイルス、閉塞感が広がる社会、仕事や家事育児で忙殺される時間から離れる瞑想する時間、人間らしい穏やかな時間、小休止する時間でもある。タイトルにある透明な静寂、浮遊感もそれを言っているのだろう。
旧シリーズで使った、捨てられたガラスや事故車のサイドガラスの破片は今回、使われていない。この廃品ガラスの破片という素材がもたらす意味性はとても大きいので、新シリーズでも素材として活用してもいいのではと思った。

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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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