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Between the Lines アマノ芸術創造センター名古屋で2025年9月27、28日に上演

©︎Between the Lines 2025, FUSHIKI Kei / photo: IWATA Naoki

 名古屋・新栄のアマノ芸術創造センター名古屋で2025年9月27、28日、〈Between the Lines〉が上演された。
 
 クリエーションメンバーは以下の各氏である。
演出・構成・映像: 伏木 啓
空間構成・装置: 井垣理史
音楽・音響: せきみつほ
出演:高木理恵、てらにしあい、松永雄一(松竹亭ごみ箱)、加藤春香、高野遥、大関友雅

 伏木さんは1976年生まれ。2001年、武蔵野美術大学大学院造形研究科修士課程修了。2006年、DAAD(ドイツ学術交流会)奨学金を受け、ドイツに滞在。2008年、バウハウス大学ワイマールMFA課程修了。2017年、京都市立芸術大学大学院美術研究科博士後期課程満期退学。現在は名古屋学芸大学メディア造形学部映像メディア学科教授である。

 井垣さんは1973年生まれ。愛知県立芸術大学美術学部美術科油画専攻卒業、愛知県立芸術大学大学院美術研究科油画専攻修士課程修了。現在は名古屋学芸大学メディア造形学部デザイン学科准教授である。

 伏木さんと井垣さんは、2003年から協働で作品を制作。その1つ、映像と俳優による舞台作品〈The Other Side〉は、2019〜2022年に5つのバージョンが上演され、その後、2022年10月に俳優のいないインスタレーション・バージョンとして作品化された。

©︎Between the Lines 2025, FUSHIKI Kei / photo: IWATA Naoki

 本作は、その次の作品として、2023年に構想され、2024年からクリエイションを開始。2回のスタディ公演を経て、今回が初の本公演(公演時間80分)とのことである。

レビュー

 筆者は、伏木さん、井垣さんの舞台作品を多く見ているわけではない。前作〈The Other Side〉のインスタレーション・バージョンでは、現実空間と映像、メディア、身体と語り、集団的あるいは個人的記憶が入れ子構造になりながら、シームレスな世界が構成され、時間と空間のレイヤーがリニア、あるいはノンリニアに重なっていく空間を成立させていた。

 今回の舞台は、パフォーマー(俳優)の男女6人が出演するが、舞台空間は極めてシンプルにつくられ、部分的に映像を使っているとはいえ、形式でいえば「演劇」の範疇に入る作品であった。

©︎Between the Lines 2025, FUSHIKI Kei / photo: MANO Asuto

 舞台のチラシに書かれている「世界が私の内側に広がって私の輪郭が溶けていく」という惹句は、舞台最後でも女性の俳優によって発せられるキーセンテンスである。この言葉からも、舞台は、人間と人間、人間と外界(世界)の関係、共同性が主題になっていることが分かる。

 「世界が私の内側に広がって私の輪郭が溶けていく」という言葉から、筆者は、仏教の無我や無常、マインドフルネス、道元の「身心脱落」や、イスラムの神秘主義(スーフィズム)の詩人、ルーミーの言葉、あるいは、ジル・ボルト・テイラー『WHOLE BRAIN 心が軽くなる「脳」の動かし方』に書かれた宇宙との一体化のイメージなど脳科学を想起した。

 舞台上に大掛かりなセットはなく、俳優の数と同じ6本の、細いネオン管のような細長い「Line」が上方から垂直に下がっているのみである。

©︎Between the Lines 2025, FUSHIKI Kei / photo: MANO Asuto

 「Line」は、白く淡い光を発しているように見え、取り外しが可能。早くも客入れ段階から、舞台を横切る俳優たちは、この「Line」を外し、手に持って、下手から上手へ、あるいは上手から下手へと横切っていく。俳優が「Line」に触れると、電子音が発せられる。「Line」はリニア(線形)であり、境界線であり、そしてメディアのメタファーなのだろう。

 「Line」は、上手から下手に向かって、奥に斜めに並び、この連なり自体が、もう一つのラインをかたちづくることで、空間に境界線と奥行きを強く意識させた。

 伏木さんの作品の一貫したテーマは、時間意識における線形性と非線形性の重なり、である。線形性とは文字通り、グラフが直線的な関係、いわば入力に対して出力が比例になる関係を指し、非線形とは、それ以外の複雑な、曲線や波形などの関係である。

©︎Between the Lines 2025, FUSHIKI Kei / photo: MANO Asuto

 もう少し、イメージ的にいうと、線形は単純な因果律の時間の流れ、非線形は複雑系、バタフライ・エフェクトのような、時空間を超えた因果関係である。

 「私」の人生は、明確なリニアな出来事の集積によって生まれるとともに、偶然的な小さな巡り合わせが複雑に組み合わさっている。そして、仏教ではこれらの線形、非線形とも、原因と結果がある「縁起の法」にしたがい、生成滅却する現象の流れと考える。

 今回の舞台は、言葉を介した、あるいは言葉を介さない、さまざまな時間、空間、さまざまな位相の経験が散らばるような、ポリフォニックな空間によって、人間の関係性、共同性をテーマに据えた舞台であるというのが、私の見立てである。

©︎Between the Lines 2025, FUSHIKI Kei / photo: IWATA Naoki

 詰まるところ、この舞台には、ストーリーらしいストーリーは存在しない。ダイナミックな身体性も演劇的カタルシスもない。だから、見るのにかなりの集中力がいる。伏木さんは、あえて、そうしたのだと思う。明確な物語も、強靭な身体性も表に出さず、むしろ、人間があわいに生きること、揺れ動く人間の関係性と世界を主題化したのである。

 今回の舞台では、メンバーがそれぞれの記憶や経験を持ち寄って、意味や解釈の境界域(「波打ち際に立っています」「水平線が溶けていく」などのセリフが象徴的である)、互いの見えない溝を探りながら、クリエイションしたとのことなので、まさに、舞台はコミュニケーションを巡る一つの実験場だったという言い方もできるだろう。

 舞台の冒頭で、俳優らが演じている現在、その場にいながら、通常の生活では、意識されない(知覚できない)「熱田台地」という土地の地勢を話題にし、人間の思考、知覚の限界を超えた時間と空間の重なりに言及しているのも、この舞台のテーマに関わる部分である。

©︎Between the Lines 2025, FUSHIKI Kei / photo: MANO Asuto

 ピアノなどの生演奏の中、俳優たちによるモノローグとダイアローグ、ディスカッション、そして、身体的接触が静かに展開し、子供の頃の記憶や、辛かった人生の経験の断片が語られていく。それが俳優の個人的な経験なのか、それを基に創作されたものかは分からない。

 だが、それらの断片の連なりが物語や何らかのメッセージに到達することはない。淡々とモノローグとダイアローグの断片がさまざまな形で反復されるのみである。しばしば同じ言葉が繰り返されるが、マイクを手に取ったり、呟いたり、対話をしたり、相手に触れたり、メディアを通して発信したりと、バリエーションがある。

 そして、概念や言葉そのものでなく、それらの一回性の事象という個別具体的な経験から、他者へと開かれることが示される。そこにこそ、記憶の中の小さなささくれ、傷つき、疎外感、孤独、悲しみ、伝わらない思いがあると言わんばかりに⋯。

©︎Between the Lines 2025, FUSHIKI Kei / photo: MANO Asuto

 舞台によく登場する浜田廣介作の児童文学「泣いた赤鬼」や、まどみちお作詞の童謡「やぎさんゆうびん」は、他者との共生や、コミュニケーションの難しさを問うているし、ノイズによってかき消される映像や、手持ちのスクリーンに投影されるイメージの断片化は散り散りになった世界を暗示しているようにも見える。

 出演者が交代で仮面を着け替えていく場面からは、誰もが、身近にいながら、自分と異なる価値観、背景をもった他者を人間の解釈によって、異形いぎょうとして無意識にラベリングして、差別、排斥する人間社会の悲しみが滲んでいた。

 逆に、相手を抱きしめる行為は、言葉を介さないノンバーバルな、かすかに「触れる」という感覚、身体性のコミュニケーションであり、そのとき、崩れる演者の姿は、ガラス細工のように儚く、無垢な人間存在の脆弱さに感じられた。

©︎Between the Lines 2025, FUSHIKI Kei / photo: MANO Asuto

 終盤、「僕らが出会うには今を切り取らなければいけないんだよ」というセリフが、演者から発せられる。ここには、この舞台の核心ともいえる、人が人と共生し、他者とコミュニケーションをし、心を通わせ合うことの、美しくも悲しいアポリアが含意されているように思う。

 それぞれの人間は、自分の記憶、経験による、それぞれ異なった世界観、仮想モデルを世界に投影して、生きている。同時に、それは常に、うつろい、現れては消える思考、解釈、妄想によって揺らぐ世界でもある。

 その中で、人は、世界の複雑さを単純化し、それぞれの脳のバーチャルな世界を生きて、アルゴリズムで言動を選んでいる。自分が参加している物語を要約し、相手をステレオタイプとして捉え、認知の歪みとともに生きている。それは、人間がダメなのだということではなく、人間の思考、知覚の限界である。人間の知覚、認知は、ただしく見ておらず、人間の脳はおそろしいほどに限定的である。だから、生きることは苦しいのだ。

©︎Between the Lines 2025, FUSHIKI Kei / photo: IWATA Naoki

 神の子・イエス・キリストは十字架に磔にされながら、自分を十字架にした人たちのために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ったと伝えられている。人間は自分が何をしているか分かっていないのである。

 ちなみに、人間は、自分が考えていることとは違うことをやってしまう存在であるという、思考や言葉と行動との乖離は、鈴木忠志の演劇論や人間理解の根幹でもある。

 自分が見ている世界が唯一ではなく、それぞれの見ている世界の実感、主観は違うのに、語られないこと、語り得ない世界は捨象されてしまう。人間は、自分の弱さ、ヴァルネラビリティとともに、自我を中心に据えた、妄想的な自動思考によってつくり出されたフィクションを生きるしかないのだ。

©︎Between the Lines 2025, FUSHIKI Kei / photo: MANO Asuto

 「世界が私の内側に広がって私の輪郭が溶けていく」とは、そうした、人間の自我、言葉の世界の分別智を超えて、無分別智の世界、自我が溶解して、宇宙と一体化する自他不二の世界、生命の純粋無垢なつながり、いわばマインドフルな瞑想、悟りの境地のことを言っている。

 「僕らが出会うには今を切り取らなければいけないんだよ」ーー。確かに、システム化された社会、物語の中で、固定され、プログラミングされた「僕ら」は、真に出会うことができない。真に出会うのは、「今ここ」という瞬間だけである。

 出会いとは、「一般」「客観」ではない。出会いは常に「個別」である。その一回性の経験を共有し、実感、深い思い(主観)を交換するとことから、他者に開かれていくのである。

©︎Between the Lines 2025, FUSHIKI Kei / photo: MANO Asuto

 普遍性も客観性の物語も全ては、こうした「今ここ」の出会いから開かれるのである。三人称ではなく、「私」という「いのち」と、「あなた」という「いのち」の、一人称/二人称の出会いによって、心と心が触れ合い、その経験の共有によって、共に生きる関係性が紡がれる。

 ルールやシステム、正義ではない。「私」と、もう1人の私である「あなた」が、個別の、ただ一回の経験、語りから、主観と主観を交換し、それぞれが変わることで、「私たち」が立ち現れ、共生感が生まれる。そんな可能性を見せてくれたのが、この舞台なのではないだろうか。

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