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芸術の共同性について思ったこと

日経新聞二〇〇九年九月五日付の記事「邦画のセオリー変える」は読み方によっては、かなり辛らつな内容に思える。「芸術性の追求より観客の満足感優先」。そんな見出しが躍る記事自体は、テレビの連続ドラマを映画化するだけの製作手法にクギを刺したよくある内容のものだが、当のテレビ局プロデューサーが「いわゆる『映画』を作っているつもりはない。僕らが目指すのは良いコンテンツだ」と開き直っているのは、いかにも後味が悪い。「映画の文法がずたずたになっている。斬新な表現を切り開いているわけでもない」と、記事の中で映画評論家の山根貞男さんが切り捨てるのも、徒手空拳の闘士のようだ。ここでは、決して切り結ぶことのない対立の空疎さがあらわになっている。あるいは、日経新聞九月十六日の夕刊記事「美術館はディズニーランドに学べ」。インタビューに答える金沢21世紀美術館の秋元雄史館長が、観客動員の実績を踏まえたうえか、「美術館にとって最良のお手本は、東京ディズニーランド(TDL)のようなテーマパーク」とあっさり言ってのけている。いずれも、今さらという気はするけれども、あえて紹介してみた。近年の文化をめぐる状況といえば、まあこんなところだろうという意味で。
表象文化論の小林康夫さんが書いた小論「いま、芸術とはなにか? 芸術の倫理化に向けて」(小林編「21世紀における芸術の役割」未来社)が目に留まった。芸術は今や、個人がだれでも自由に参加できる美学として至るところにあふれ、公準もなく、市場の中でうごめいている。そうした認識のうえで、状況に抗するものとして小林さんが挙げる「芸術の倫理化」とは、芸術作品が商品性や個人の趣味のレベルを超えて、異質な他者、「私」と通約不能な無限なものに回路を開くことによってのみ近づきうる、芸術のラディカルな本質である。「われわれがまだ知らないところで、気づかない仕方で、芸術の出来事は起こっているのかも知れない」。高度資本主義システムに馴致されたアーティストが圧倒的な多数派を占めるなか、小林さんは、そうではない「真正」な芸術家がどこかに存在するはずだと信じている。
現代は確かに、根源的な他者へのかかわりを喪失する一方、「自分」が肥大化した時代と言えるだろう。欲望を巧みにつかみ、自分をプロデュースすることで競争に打ち勝つことを求める大半のアーティストは、自分主義というのか、自身の表層の感性を洗練させることに躍起になっている。仏文学者の内田樹さんが、現代に自殺者が増えたのは、自己決定・自己責任論、自分探しイデオロギーが瀰漫している状況と重なっていると喝破している(「中央公論二〇〇九年七月号」)。すべてを自分に還元する、つまり自分の個性や存在感を際立たせることをひたすら願い、すべての決定と責任を自分が負わなければならないなかでは、自分の死によって物事を清算しようとする人も現れざるを得ない。他者との関係なしに私という個人は存在しないはずなのに、他者とのかかわりを断絶したまま「自分」の範疇にとどまった作品が多いのも、自分主義ともいえる今の状況と重なる。自分以外の異質なものを斥けるという意味で、他者不在は、人間が根源的に芸術行為にかかわるという大きな意識を希薄にする。ついには、自分のエゴが既存の仕組み、できあがった価値観の中でのノウハウに向かうのみだ。
近代が達成した成果としての「個人主義」に懸念が及んでいるのは、例えば、次のような言葉にも表れている。「かつてひとびとは、自分たちをもっと大きな秩序の部分とみなしていました。その秩序とは宇宙の秩序であったり、『存在の大いなる連鎖』であったりした」(チャールズ・テイラー「〈ほんもの〉という倫理」)。近代以前からの解放が発展の代償として視野狭窄を招来したとすれば、それがアートを道具化し、見栄えのいいもの、大規模なもの、費用対効果の高いアトラクションに通じるものを評価する価値観を作り上げたと言えなくもない。小林さんは前掲書に収められた座談の中で、こんなふうにも言っている。「アートというのは(中略)、魔術というのは何か古いものとか、時間を越えたものとか、今この場所には少なくとも見えないものとこの場所が繋がるというふうにならなくちゃならない」
優れた表現者は、さまざまな意味合いで自分を超えた大きなものを意識しているものだ。たとえば、「私の映画は時代との共同責任で作ったようなもの」と明言する(決して自分の責任だけで制作したものではない)映画監督の吉田喜重さんは、個性や自分などというものはそれだけでは、たかが知れていると考えている(日経新聞六月二十八日付インタビュー)。大きな秩序やつながり、共同性を解体し、そこから引きはがし、分断した個人の趣味、自由を自己責任のうえで謳歌していくのが、近代の市場主義である。芸術のグローバル化が進む一方で、逆に「私」や「自分」を絶対化した芸術作品が矮小化、凡庸化し、大きなものとのつながりを喪失していくのは、ある種のパラドックスである。作品が、相対的な価値観の中で個人の自由な趣味にとどまれば、それだけ市場との親和性は高くなる。とりあえずの受けはいいだろうが、時代を超えていく持続性、永遠性は持ち得ないのではないか。
もちろん、共同性や共同の価値を個人に優先するというと反動的と取られかねないし、「私」を起点にすることそのものが矮小、凡庸なのではないが、共同性や大きな秩序を失えば、作品は個人的な利害関係の中で動かされ、相対化され価値の海に埋没してしまう。いずれにしても、人間が共同性をすべて切り捨てることができないとしたら、個が生き生きとし、しかも自分だけの趣味に閉じない共同性とはどんなものなのだろうか。例えば、アート関係者でつくるアートワールドといわれる共同性。アート界のルールにしたがって、情報やこれまでのアートの系譜、今の流行をもとに、自由に、合理的なつもりで自分自身の作品の方向を選択するという在り方がありうる。ただ、アーティストとしての成功を願うこうした方法では、今あるシステムに服従し、自己欺瞞と虚栄、利己心に陥ってしまうのではないだろうか。個別性を押しだそうとするものの、同じような類似品があふれ、その個別性が市場の波にさらわれているのが現状だ。それは、外部から与えられた価値感、外部から判断された自分の能力、外部から与えられた快楽の関数による受動的な在り方に陥っているのみである。
「現在のわれわれを、過去の世代の志半ばで死んだ亡霊の復活や実体化としてとらえるとき、われわれ自身が希望を取り返すだろう」。システムにからめとられた芸術に思いを巡らしていたとき、大澤真幸さんのこんな言葉に引き寄せられた(中日新聞夕刊二〇〇九年五月二十八日論壇時評「希望はどこに宿るのか・下」)。かつて存在したが忘れ去られたもの、存在するはずだった、あるいは存在したかもしれないが、存在するに至らなかった理想。そうしたところに希望が宿るのではないかというこの発想を別の形で説く人たちがいる。
「忘却された文学史の復元作業こそ重要なのだ」。そう語ったのは、やはり商品化しつつある文学が流布する中、世界の片隅から真の文学にアクセスすることを思念する文芸評論家の高澤秀次さん(中日新聞夕刊二〇〇九年六月一日「近代文学の終焉とその後」)。あるいは、映画監督の是枝裕和さんは、大島渚さんのテレビドキュメンタリーを引用しながら、「残された者たちの生は、常に、死者たちの?あり得たかもしれない生?によって批評され続けている」(読売新聞二〇〇九年七月二十九日)と書く。
小林さんが言っている芸術の倫理、大澤さんが言う希望の宿る過去、高澤さんの忘却された文学史、是枝さんのあり得たかもしれない生は、すべて一脈通じあうものがあるような気がする。さらには美学・芸術学の吉岡洋さんが、吉岡洋・岡田暁生編「文学・芸術は何のためにあるのか?」の中の鼎談「文学・芸術は何のためにあるのか?」で言っている「死者への態度」を加えてもいい。
吉岡さんは、鼎談の中の、芸術の気品について語り合ったところで、アーティストは新しいことを最初にやっても、新たなアイデアを打ち出しても、それだけではだめで、沈黙している死者たち、過去何世紀にもわたる芸術の歴史、死んでいった無数の芸術家の沈黙への態度にこそ、品位が現れるのだと言っている。吉岡さんはここで、生きている間のこと(たとえば新しい表現やその評価、名誉、虚栄、利己心、金)だけに縛られるのではなく、死んでしまった過去の人たち、これから生まれてくる未来の人たちを含めた全体への畏れをもって制作すべきだということだろう。
過去(あるいは未来)を想起するとは、今あるアートワールドなどより、はるかに根源的な共同性につながるのではないか。そうした共同性は、「歴史」の中で顕現した過去の共同体そのものでも、作為的にある世俗的な目的でかたちづくられる集合体でもない。芸術作品をわがものに利用したり、偽装の顕彰をしたり、国家や民族、宗教の求心力にしたりするものでもなく、型にはめ込んで歴史に接続することで市場に迎合するものではさえない。ジャン=リュック・ナンシー「無為の共同体」(西谷修『あとがきに代えて』が分かりやすい)を参照するならば、人間が死を自分で体験することも完結することもできないこと、すなわち、自分の死が自分のものでなく、他者つまり共同の出来事だとすれば、真正な芸術もまた、「私」の個別性のものではなく、共同性の出来事、人類の出来事なのではないか。自分から発した芸術が共同性によって根拠づけられるという逆説があるからこそ、芸術家には過去と未来を想起する意思がなければいけないのではないだろうか。死が一人で完結せず、他者の存在を要請するように芸術もまたそうである。死が複数の人間のリレーが必要である出来事、人と人の間にできる出来事であるように芸術もまたそうである。
アーティストであることがそのままであれば必ずシステムに管理されてしまうのが現代だ。システムの檻から脱出し、制作の可能性をいったん零度の状態にする、根源性の沃野に立つことは、あまりに困難なことなのかもしれない。ここでいう共同性とは、芸術を何かに役立てるとか、アーティストの名誉のためとか、アートを娯楽にして人を集めるとか、アートピープルだけで盛り上がるとか、そういう何かの営為のために実体化される共同性ではなく、まさに「無為の共同体」である。この可能性ゼロ、何もしないという無為性にこそ、潜在性をみるべきとしたのこそ、ジョルジョ・アガンベンである。
「特定の具体的可能性すべてを宙づりにし、奪取するなかで、根源的な可能化(すなわち可能態=潜在性)がその真価を露わにしてくるという体験に他ならない…可能性の不活性化においてはじめてそれ自体として立ち現れてくるものとは、すなわち、可能態=潜在性の起源そのもの…できないこと、人為による個々の特定の可能性を不活性化することから出発してのみ、この根源的な可能性は可能だからである」(ジョルジョ・アガンベン「開かれ」)。何やら元気が出てくる言葉だ。
本稿は芸術批評誌「REAR」(2009年22号)に掲載されたものに加筆修正したものです。