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荒川修作+マドリン・ギンズ東京事務所 ドクメンタ4(1968年)の荒川作品を公開

  • 2020年6月16日
  • 2020年6月16日
  • 美術

『Distraction Series』第6号より

 荒川修作+マドリン・ギンズ東京事務所Reversible Destiny Foundationが、荒川+ギンズが創造したさまざまな哲学、プロジェクトを共有しようと配信を始めた隔週のニューズレター『Distraction Series』の第6弾で、荒川修作が参加した1968年の国際展ドクメンタ4を振り返り、ドクメンタ4に出展された荒川の6作品をWEBサイトで公開した。

 荒川+ギンズ東京事務所によると、ドクメンタは1955年、西ドイツ(当時)を美術の国際舞台へと復活させ、ナチスから「退廃芸術」とみなされたモダンアートを人々が鑑賞できるようにとの狙いで始まった。 荒川はドクメンタ4のほか、1977年のドクメンタ6にも参加している。

 ドクメンタ4があった1968年は、激動が世界を覆った1年であった。

 チェコの民主化運動「プラハの春」、パリ五月革命、シカゴ暴動、東大安田講堂封鎖など、若者たちによる異議申し立てが世界中に拡大。公民権運動、民主化運動、反戦運動など、世界中でさまざまな抗議運動が活発化した。

この国際展でも、組織や内容に公正さを求める大きなうねりが起き、それまでのモダンアートの回顧展という性質から、今まさに生まれようとするコンテンポラリー・アートを中心とした展示へと方向が変わった。

 公式テーマは「アートはアーティストが創るもの」だったが、一般に広まったスローガンは「今までで一番若々しいドクメンタ」であった。芸術監督のアーノルド・ボーデは、企画概要においては責任を持つ一方、民主的な作家選考プロセスを取り入れるためにディレクター役から退き、作品の最終決定権は若い世代のアドバイザーからなる顧問会に委ねた。

 その結果、展示作品の大半は近作、あるいは最新作となり、観客に多種多様な作品と出合う機会を提供。それに対しては、好意的な反響がある半面、多くが米国出身アーティストに偏ったため、批判の声も上がった。

 参加した全作家149人のうち、51人が米国人。「テーマはアメリカーナ」だとも揶揄もされた。

 世界中で若者が反乱を起こす中、それでも、作品の多くは、当時の米国のアート・シーンを代表するポップ・アート、ミニマリズム、カラー・フィールド・ペインティング、オプ・アート、ポスト・ペインタリー・アブストラクションなど政治的なものではなく、オープニング当日には、選考から外されたドイツやその他の国出身のコンセプチュアル・アーティストやパフォーマンス・アーティスト(フルクサスや、ハプニングを主としたアーティストら)が抗議運動を主導したという。

 4人のドイツ人アーティストは“Honey Blind”(ハニー・ブラインド)と題したアクションを展開。オープニングの記者会見に用意されたマイク、テーブルや椅子に蜂蜜をかけ、スピーチをするキュレーターを含む会見参加者を次々と抱きしめ、キスをして回るという妨害アクションを見せた。

 Reversible Destiny Foundationのアーカイブからは、現在のところ、ドクメンタ4でのアーティストの抗議運動や、1960年代後半の米国公民権運動に対する荒川修作、マドリン・ギンズの見解をはっきりと記す資料は見つかっていない。

 それでも、 荒川が日本で「反芸術」を掲げ、体制に批判的であった前衛美術グループ「ネオダダイズム・オルガナイザーズ」の一員であったこと、2人がコード・ピンク(Code Pink、米サンフランシスコを拠点とした女性主導の反戦活動団体)に深く興味を抱いていたこと、あるいは、ギンズが“Occupy Wall Street”(ウォール街占拠運動)を支援していたことなどを理由に、荒川+ギンズ東京事務所は、荒川とギンズの作品に通底する既成の枠組みを取り払う思想に、「1968年」と反響するものを読み取っている。

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