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二人展 上田良・澤田華/テキサス・ヒットがやってくる

Lights Gallery(名古屋) 2019年9月5〜22日

 京都精華大の先輩後輩の関係で、共に評価されている上田良と澤田華という若手アーティストの二人展が、「あいちトリエンナーレ2019」の会場にもなっている名古屋・円頓寺のギャラリーで実現した。「テキサス・ヒットがやってくる」と奇妙な副題が付いている。テキサス・ヒットは、打球がふらふらと内野と外野の間に落ちる幸運なヒット。狙いとは違っても、写真や映像には何かが映りこんしまう。光学現象とそれを写し取る機械装置のプロセスの中で、必然と偶然の間にある何かが起こり、そのとき、そこにあった世界が写真になる。デジタル時代における写真と存在、イメージを巡る問いかけがここにはある。

澤田華
「あいちトリエンナーレ2019」より

 「あいちトリエンナーレ2019」にも出品している澤田華(1990年、京都府生まれ)には、まさしく、本や雑誌等印刷物の写真に写り込んだ正体不明の物体を検証する作品がある。トリエンナーレ会場の愛知芸術文化センターに展示した《Gesture of Rally #1805》は、「ラリーの身振り」シリーズの一つで、「現代の代表的なオフィス環境を用意した企業」を写した、雑誌か何かのオフィスの写真に映っている物体(筆者にはアオガエルに見える)を一つの事件として分析・検証する。
 科学的というよりは、むしろ仮説を広げて、それっぽいものの可能性を際限なく増幅させる。画像の拡大、インターネット上の情報や、類似のものの調査、画像検索機能、3次元に立体化したオブジェなど、様々な検証プロセスが紹介される。物体の正体の真実に近づくように演出しながら、展示の終盤では、「これは喉仏です」「これは白鳥です」「これは編み物です」「これは芸術です」などと、画像検索のAIが判定したかのような意味のない定義付けが反復される。数限りない可能性というよりは、誤読の連鎖が生じて正解に到達しえない限界、いわば、問いかけに対する問いかけが積み上がり、仮説が仮説を呼んで答えが先送りされ、結局、宙吊りにされる状況が明らかにされる。
 タイトルの「ラリーの身振り」は、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画「欲望」のラストシーンで、パントマイムによって、ないはずのボールを見えないラケットで打ち合う場面から着想。決着がつかない不毛なラリーが繰り返されるような状況を指している。

澤田華

 そんな澤田華がLights Galleryで見せた展示は、デジカメの液晶モニターを別のビデオカメラで撮影した映像である。皿の上のカニの食べかす、生い茂る雑草、工事現場の柵、地面の土くれ、バイク置き場、ベンチの上のペットボトル。液晶画面には、ありきたりのさまざまな画像が映っては消去されていく。消去の前には、デジカメの液晶モニターの画像が何かを探すように動き、画像の中のある部分にズームアップして、消去のボタンが押される。その繰り返しである。アーティストラン・スペース「波止場」(名古屋)での個展「車窓のそとは既に過去」(2019年8月4日〜9月15日)でも、同系列の作品が展示された。
 デジカメで撮られた画像が消去されるさまをビデオで撮影した映像は、「ラリーの身振り」シリーズで、正体不明の物体が写った写真をデジカメで撮影して引き伸ばすという二重構造と共通する。映されたデジカメの中の画像が既に電子データであるが、それを撮影したビデオもデジタルなので、ここではピクセルに還元できるイメージが入れ子構造になっている。画像を拡大しても、物体の本質に近づくようで離れていく。デジタル画像のイメージはピクセルの集積、つまり色点の配列でしかない。ある物体にズームアップし、その形や色が何らかの付加的な情報を与えてくれることはあっても、である。
 そこに実在した風景を撮影したデジカメの液晶画面を引き伸ばしていくと、それはピクセルを増殖した抽象的な色面に近づいていき、もはや、かつて存在したものはない。それを撮影したビデオカメラの映像は? それを見ている私たちの認識は? デジタル化とインターネットに象徴される現代では、全てのイメージが、こうした画面の「窓」を入れ子構造にして連鎖する。眼差しの先にある物体と情報、写されたものと、その消去は、存在と不在を巡る問いかけ、認識し判断を下す私たち自身への問いかけに通じている。

澤田華

 今回は、澤田が写真作品を出品していた。被写体は、屋根が連なる家並みとガラスの反射、金網フェンスと繁茂した樹木の中に開いた明るい空隙、公園のような芝生とそれを囲う手前の木々など。影のよどみと降り注ぐ光、光の当たる物体とその裏側、ガラス面の透過と反射などを狙ったスナップのようである。

澤田華

 一方、上田良は1989年、大阪府生まれ。上田の作品は、彫刻(オブジェ)と平面との関係を考えさせる。オブジェを撮影した写真であることは間違いないのだが、そうとは思えない物質感と立体感があって不思議な感覚を引き起こす。拾ってきた廃材やプラスチック、金網などのガラクタ、彩色した紙粘土や紙、その他、市販の物なども含め、さまざまなパーツを組み合わせ、立体化する。一般に彫刻家は、ドローイングを数多く描いて構想を練り、その平面から彫刻を目指すが、上田の場合は、逆に彫刻を平面化している。

上田良

素材となる物資は、木片や金属のようなものを除き、紙のような薄っぺらい素材が多く、耐久性はなさそう。それぞれの脆弱な部品が微妙なバランスで支え合い、仮留めしたように、かろうじて立体にとどまっている趣。その一時的な状況を一発撮影しているようだが、その場で組み立てたコラージュか、写真上で合成したように見えるほど、それぞれの部分が平板であることを回避するように生き生きしている。組み立てたオブジェの一部をある特定の視点からフレーミングして撮影しているので、全体像や周囲の空間との関係は分からない。さり気ない写真ながら、切り取り方や構図、アングル、ライティングを精査しているのだろうか、元のオブジェを超えて視覚を引きつける。どうして、こんなふうに撮影できるのか不思議だ。

上田良

堅牢な彫刻性やボリューム感、重量感は捨象しても、なお彫刻の形状のユニークさや、色と色の関係、部分と部分の配置、質感と奥行きを保ったまま、平面に変換する試みと言っていいだろう。各パーツの実際の位置関係と写真の中の見え方のズレが違和感を抱かせる。雑誌などの写真とおぼしきパーツを組み込んだ作品もあって、位置関係が錯綜して見える作品もある。拾い集めたチープで、弱々しく粗末な素材によって、《平面のオブジェ》と《オブジェの平面》を行き来するように、写真とオブジェが拮抗している。通常の彫刻のように多視点から見ることはできないものの、目が作品の奥行きや位置関係、色と色の関係、イメージの細部と全体を手繰るように巡って楽しい。

上田良
上田良
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文化とメディア—書くこと、伝えることについて

1980年代から、国内外で美術、演劇などを取材し、新聞文化面、専門雑誌などに記事を書いてきました。新聞や「ぴあ」などの情報誌の時代、WEBサイト、SNSの時代を生き、2002年には芸術批評誌を立ち上げ、2019年、自らWEBメディアを始めました。情報発信のみならず、文化とメディアの関係、その歴史的展開、WEBメディアの課題と可能性、メディアリテラシーなどをテーマに、このメディアを運営しています。中日新聞社では、企業や大学向けの文章講座なども担当。現在は、アート情報発信のオウンドメディアの可能性を追究するとともに、アートライティング、広報、ビジネス向けに、文章力向上ための教材、メディアの開発を目指しています。

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