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超資本主義への疾走—

二〇〇七年十一月、東京国立近代美術館地階の講堂で、美術評論家連盟主催のシンポジウム「超資本主義への疾走 中国現代美術の過去と未来」が開かれた。当時、さまざまな美術系メディアで現代美術のバブル的な状況が指摘される中、シンポジウムからは、その中心的舞台・中国で展開する経済主導型文化開発の生々しい一端が浮かび上がった。
シンポでは、上海、北京を中心に活動を続ける、美術雑誌「Visual Production」(〇六年十月創刊)の編集長グ・ツェンツィン氏による中国アート界の現場レポートがあった後、そのグ氏に、二〇〇〇年の第三回上海ビエンナーレでディレクターを務めるなど、中国の現代美術とかかわりが深い清水敏男氏(学習院女子大教授)、世界のアートの動向に詳しい森美術館長の南條史生氏の二人が加わり、パネルディスカッションが行われた。司会を務めたのは、女子美大教授の南嶌宏氏である。
最初にグ氏が言及したのが、ロンドンや東京のオークションで存在感を増す中国現代美術や中国資本家たちの勢いだ。いくらか得意げな口調で、「中国作家の作品に五百万ドルの値がついた」などと述べていくグ氏は、こうした過熱ぶりを「チャイナ・フィーバー」と表現。十年前は、世界のアートワールドで、「前菜(春巻き)」でしかなかった中国現代美術が主菜として表舞台に立ちえた状況を、「北京、上海、広州では芸術家、美術家、ギャラリーが次々生まれている」「上海市政府は、二〇一〇年までに百のミュージアムをつくる」などと紹介していくさまは、これでもかこれでもかといった感じだった。
中国が美術の制度づくりのただ中にある中、スペクタクル全開の市場の場と化した国際展など、欧米の既存システムに対し、グ氏が盲目というわけではない。「欧米のルールを堅持するだけなら、私たちのコンテキスト、内なる価値観を生み出すことはできない」。グ氏が、展覧会や観客への啓蒙を通して、内なる中国的価値を構築する必要性があるのだと繰り返し強調したのは意外とはいえ、真っ当な考え方と言える。もっとも、もともとグ氏のレポートの趣旨が、中国現代アート界の熱狂ぶりの紹介にある以上、中国の現代美術の活況について、時に冷静な分析的言説を交えながらなされた報告も、ナショナリスティックに響くばかりで、歴史的、社会的射程を含んだ洞察を期待した向きには物足りなさが残った感も否めない。
グ氏が中国のアートバブルの現象面を事も無げに披露していくとき、彼自身がまさにその渦中の一人だ。グ氏は「私のような人が大勢いる。中国の現代美術の発展を促しているのは、中国政府でも欧米の力でもなく、個人だ」と力説するのだが、個人を大きな資本の力に組み込んでいく構造や背景について批評的に述べることはない。グ氏によると、国全体が一つの株式会社になっている中国では、アート界のエリート達は皆ビジネスマインドをもっていて、アーティストがキュレーターになったり、美術館が芸術銀行を設立したりするなど、職責があいまいなまま総力戦になっている趣さえあり、資本がそれを強力にサポートしているようだ。不動産や株で成功した資本家たちの次のターゲットは芸術作品で、中国の有力コレクターの年間作品購入額は二億人民元(約三十億円)に達しているという。
こうした報告に対し、清水敏男氏は、現代美術が、自由化されたのがわずか二〇〇一年以降という中国で、「アートとパブリックの関係を見据えるのはこれから」と冷静だった。清水氏によると、中国は、美術館がいくら建設されても、それを支えるシステムや、(日本などと)美術分野で交流するインフラ、最低限の知識がないという状況。「(美術館ができても学芸員がいないので)日本の学芸員を輸出することもできる」という同氏の冗談交じりのコメントは会場を大いに笑わせた。次のスピーカー南條史生氏も、シンポの冒頭、「売れるものはいいもの、という論理に入っていくことは希望のあることでない」と、中国へ厳しい目を向けた針生一郎・美術評論家連盟会長のあいさつや、グ氏の「芸術作品は精神文化だけでなく、物質文化の構成部分になり、投資対象になっている」との発言を受け、「中国では、文化と経済が紙一重になっている」との認識を示した。
南條氏がスライドを使いながら紹介した中国の現代美術の現状は概ね、同氏が「新美術新聞」連載のコラム「JtoA通信アジアへ」の11月21月号と12月11・21日合併号でレポートした内容と重なる。報告があったのは、相次ぐ美術館建設、北京の大山子798芸術区や、新たな巨大芸術エリアとして注目される元酒造工場跡地、草場地と呼ばれる地域など。アートに流れ込んだマネーが新たな町を創出してしまうそのすさまじさを、南條氏は「地滑り」と評した。南條氏が現地を訪れた昨秋、798では、国際交流基金主催で、日本の現代美術展「美麗新世界・当代日本視覚文化」(9月25日|10月22日)が開かれていたが、同基金が当初、この展覧会の会場として北京の国立美術館にアプローチしたところ、「やらせてやるが、家賃千四百万円支払え」と言われたという。こうしたエピソードを明かした南條氏は、「こうなってくると、美術館とは一体、何なのかということになる」「批評的言説が必要ではないか」などと違和感も隠さない。同氏が、三枝成彰氏からの情報として伝えたところでは、「音楽業界も中国が席巻している」ようだ。
グ氏の報告とそれへの応答が一通り出たところで、司会の南嶌氏は、文化が資本主義と骨がらみになった中国の状況について、「これは新しいイデオロギーではないか」と問題提起した。会場に居合わせた美術評論家栗山明氏も「(最近は)若い作家の生活環境が恵まれすぎ、問題意識や精神的な殊勝さがなくなった。画廊はいくらでもあり、苦労しなくてもどんどん(作品が)売れる。(作品は)カップラーメンみたいに包装はきらびやかで、いろいろあるけど、食べると、みんな同じ味という状況になってきた」と指摘。798芸術区についても「暴走を始めている。中国全体の広告塔として体制側が利用している」と述べた。
グ氏が語る「内なる価値観」とは、何なのか。質疑の場面で、峯村敏明氏がその内実を問いかけたのに対し、グ氏は、「中国文化特有の特徴、アイデンティティ」「中国的な思想、価値観」などと答えた。このグ氏の「内なる価値」論については、あやふやな部分が多いものの、現代芸術が未成熟な段階で海外向けに作られた、いかにも中国的な作品から脱却し、新たな価値を発信できるクオリティーの向上にその真意があるとすれば、当然、グ氏が言うとおり、今後求められてくる姿だろう。南條氏も「外国人向けのエキゾチシズムや、アンダーグラウンド的に見えて、適度の政府批判がある輸出モデルという、これまでの在り方に対する批判的なポジション」として、グ氏の発言を好意的に受け取った。
ただ、グ氏が二〇〇〇年、南京で企画した展覧会で、屠殺直後の牛を持ってきて、裸体で牛の中に入った作家がバラの花びらをまき散らしながら中から出てくるという行為芸術によって、大衆を目覚めさせたなどと、自慢げに語るのを聞くと、一体、これは芸術なのかどうなのかと考えてしまう。すべてではないにしても、こうした話題性重視の方法論は、現在の「現代アート」の脈絡のなさが、日本やアジアはもちろん、欧米においても容易に受け入れられてしまう、現在の市場中心主義や、脱ジャンルのイベント主義、美術の非歴史的な見せ物化と、どこかでつながっているように思えてならない。これらは、特段、中国に限らず、表層を操作すれば、なんとかなってしまう今の現代美術の在り方と重なり合うのではないだろうか。南條氏が「十三億人の中国人が考えているアートの定義によって、アートの定義がシフトするかもしれない」と話したのが印象的だ。世界は、中国を含むこの巨大な資本の力に巻き込まれている。最後に、針生氏が「市場経済に身を任せるだけでなく、自分達で運動として動かしていくのでなければ、与えられた市場経済の自由という限界を超えられない」と締めくくったのは、もっともだろう。
本稿は芸術批評誌「REAR」(2008年18号)に掲載された文章に加筆修正したものです。