gallery N(名古屋) 2025年9月20日〜10月5日
今実佐子
今実佐子さんは1991年、東京都生まれ。2014年、筑波大学芸術専門学群卒業、2016年、筑波大学大学院人間総合科学研究科修了。
主な展覧会に、「Women in Abstraction」(GALLERY HAYASHI+ART BRIDGE / 東京都、2025)、個展「今実佐子展」(高崎髙島屋 / 群馬県、2025)、「現代茶ノ湯スタイル展 縁-enishi- Vol.14」 (西武渋谷店 / 東京都、2024)、個展「息吹」(LOKO GALLERY / 東京都、2024)、「VOCA展2016 現代美術の展望─新しい平面の作家たち」 (上野の森美術館 / 東京都 2016)など。

gallery Nでは初めての個展。筆者も初めて拝見する。口紅、ファンデーション、アイシャドウ、日焼け止め、ハンドクリームなどの化粧品を使って、絵を描いている。
初日のトークには参加できなかったが、翌日、ギャラリーで本人と話ができたことに加え、しっかりとしたトーク用のテキストも残してくださっているので、それも参考にしながら、記述したい。
「一日」gallery N
印象に残るのは、画面がとてもきれいなことだ。艶かしく、少しドキッとする。女性が肌にお化粧をするのように画面を作っているからということもあるが、化粧品をとても丁寧に塗り重ねていることもある。
青色などの作品もあるようだが、今回は「肌色」に統一している。また、画面に縦線や水平線を入れている作品と、オールオーヴァーな作品がある。

支持体は紙で、ある程度描いたところで、パネルに水張りしているとのこと。実は、画面の縦線、水平線などは支持体の裏面から針穴を連続して開けるようにして付けている。
作家によると、この作品は、うつろいゆく「自画像」。そのため、各作品のタイトルは完成日の日付になっている。つまり、作品は今さんの生存記録だといえる。
河原温の日付絵画も思い起こすが、大きな違いは、今さんの作品が、自分という存在証明、アイデンティティーという固定した自分、その明瞭性、強さではなく、むしろ、その日の自分の生という儚さ、瞬間性、フラジャイルで、うつろう自分ということに焦点を当てていることだろう。
言い換えると、それは、人間社会の中の自分のアイデンティティー、世界の中で屹立する私という自我よりも、自分自身の流れるような意識、雫のようないのちの欠片である。

そんなうつろいの感覚は、画面に塗り重ねられた化粧品の繊細な質感、表情、鑑賞者の視点の位置による光沢の変化にも表れている。
化粧品のラメやパールの効果による、金属光沢のようなキラキラした輝きがそうした、うつろいの感覚を出すのに役立っている。
ここに仏教の無常観を投影することもできるだろう。仏教にある「「一日一生」という言葉は、絶えず変化していく時間のことを言っている。それは同時に「今ここ」の瞬間を大切に生きることでもある。
命の儚さ、生成し消えゆく現象としての生命と無常、それゆえの瞬間のかけがえのなさ、一日を一生のように大切に生きよという思想である。
明日も生きているという保証はどこにもない。今ここに自分が存在することだけが確かであり、そこにいのちの尊さがある。メメント・モリ、そしてカルペ・ディエムが作品からにじみでいるように思う。

今さんの作品の中に流れる時間、「朝起き、化粧をして、一日を精一杯生き、そして眠る」という一日は一生のように流れ、眠ることは「短い死」を意味する。
作品は、それぞれが「絵画」として自律したものであるが、同時に空間を意識して展示されている。
会場には、サイズや形を変えた大小さまざまな作品が空間に点在するように配置されている。厚めのパネルの側面も化粧品で塗られているように、「絵画」のイメージを超えて、空間とそこに散らばる物体性が意識されているのだ。
今さん自身が書いているように、これらの作品を制作した今年5月から9月にかけての「描いた時間」と、ギャラリーの空間に展示された「見られる時間」は、流れる時間の、別の瞬間の連なりである。

ギャラリーの奥まった暗い和室空間、ガラス張りの空間の日が射し込む窓際など、配置や、天候、時間によって、作品はさまざまな相貌を見せる。
かつての、かけがえのない時間は消え、今ここという瞬間に受け継がれ、そして、その次の瞬間へと、うつろい、流れていく。
うつろいゆく世界と、うつろいゆくすべてのもの、うつろいゆく自分。それらのつながりと時間の流れ、いのちの広がりを想起させる空間が現れている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。(井上昇治)