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ままごと「ツアー」+「タワー」レビュー 愛知・長久手市文化の家

 愛知県一宮市出身の劇作家・演出家、柴幸男さんが主宰する劇 団 「 ま ま ご と 」による舞台「ツアー」と「タワー」が2020年1月25、26日、愛知・長久手市文化の家であった。「ツアー」は、2018年初演の中編、「タワー」は新作中編。ともに人生を見つめる作品である。
 両作品には、ストーリー以上に大きな違いがある。公演の際に配られた挨拶文には、「ツアー」はこれまでのままごとを踏まえた作品、「タワー」は、これからのままごとを見据えた作品だと書いてあった。集団による演劇とは何か、集団としてどう創作するかについて、「ツアー」と「タワー」では、大きな変化があった。いずれの作品も面白かったが、筆者は、実験的な舞台となった「タワー」の方が断然好きだ。
 ともに、馬蹄形の劇場の一階床面の可動椅子と舞台を取り外して、広いフラット面にし、俳優が空間を大きく使って動いた。
 「ツアー」はある意味、オーソドックスである。息子を亡くした傷心の女性が一人、車で旅に出る。非日常での出会いによって、愛する者の喪失に対してある区切りをつけ、一歩前に歩きだす。この女性と、旅の道連れとなる有名な外国人の女性ミュージシャン、擬人化された車のナビによる3人芝居だ。

ままごと「ツアー」
「ツアー」

 途中、森の中で道に迷うと、車のナビが「ナビは利用できません。インターネットに接続されていません」としつこいほどに繰り返す。旅と人生を重ねるこの芝居では、人生はナビによって決められるものではない、予測できない出来事、偶然性と自分の選択、意思によるのだというメッセージに思える。それはまた「タワー」へと続く主題でもある。
 出発したとき、ナビに入力する目的地がなかった主人公の女性は、最後、「自宅へ帰る」と入力する。生きている限り、旅に終わりはない。そして人生はつづく。この舞台は、作・演出の柴幸男さんが全体をコントロールする従来の方法で成り立ち、出演した3人は、あくまで俳優である。

ままごと「ツアー」
「ツアー」

 では、「タワー」はどうか。こちらは、集団創作である。一応、柴さんが演出ということにはなっているが、柴さんを含め出演した4人が《創作》に参加している。場面を設定して、全員で議論しながら構成していく作り方で、従前でいうところの戯曲はない。あるのは、楽譜のようにシーンの大枠の流れを示す構成表だけである。作・演出が決めた通りに俳優がやらされるというヒエラルキーを解体。ホワイトボードに皆がやりたいことを書き、全員で創作していった。
 終演後のトークによると、こうした共同制作は、2013年の瀬戸内国際芸術祭に参加してから、小豆島で「おさんぽ演劇」「喫茶ままごと」を実践するなど、いろいろな手法のクリエイションをしたのがきっかけ。それは2014年、高校生と作った「わたしの星」など、さまざまな関係性、劇場を超えたさまざまな場での創作へと展開する。

ままごと「タワー」
「タワー」

今回の芝居で登場した高さ6、7メートルはあろうかというタワーは、平台などの舞台道具、箱、梯子、その他、雑多なもので積み上げられている。いろいろな立体物が寄せ集められ、アッサンブラージュと言ってもいい方法論である。あるいは、設計図に基づかないで、その場で入手できるものを寄せ集めて積んでいくという意味では、ブリコラージュでもある。ありあわせのもので試行錯誤しながら、創作しているのだ。
文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが提示したブリコラージュとは、近代の合理主義的思考に対抗する野性の思考である。合理的な道筋、目的を決めて設計図通りに順序立てて進むのではなく、行き当たりばったり。よく言えば、柔軟にやっていく。それは人生と同じである。何事も失敗やトラブル、アクシデントがあって、予定通りにはいかない。偶然の出会い、成り行き、運不運も大きい。すべきことより、結局、できることをするしかない。目標を決めて頑張るとしても、結局、知らないうちに別のものになっていたりする。人生は、ごっこ遊びのようであり、ブリコラージュ的な戯れである。だからこそ、思いもよらない人生が待ち受けている。

ままごと「タワー」
「タワー」

芸術も同じである。イメージ通りに模写するのでも、理念を単純にイラスト化するわけでもない。ゴールに一気に進むのではなく、道に迷いながら模索し、生成連鎖するうちに、とんでもなく遠い場所を切り開いていたりする。ゴールが分からないからこそ面白い。可能性も広がる。
このタワーは固定化されていなくて、芝居の中で改変される。舞台の上で展開する、寄せ集めのもので作り直すという作業は、人生、芸術、そして、世代をつなぐ生命のメタファーにもなっている。筆者には、最初の場面でタワーの根元に向かって床をほふく前進する3人が卵子に向かう精子のメタファーにも思えた。

ままごと「タワー」
「タワー」

 柴さんを含め、それぞれの俳優は時に本名(芸名)の役柄で演じ、例えば、柴さんは「去年、男の子が生まれました」「父が死にました」「自分が崩れていく感覚がある。新しい自分をたてるために崩していく」などと、自分の本当?の近況を語る。こうしたフィクションと現実のあわいを行く場面は、タワーの作り直し、風船を上空に上げようとする戯れ、戦国時代遊び、客席の人も参加した巨大あやとりなど、その後に続く《作業》《ごっこ遊び》《クイズ》などの場面とも通じ合う。確固とした文脈、ストーリーに没入させない仕掛けである。それぞれが演じる役柄のアイデンティティーも最初から最後まで一貫したものではないようである。

ままごと「タワー」
「タワー」

よりよく作り直すこと、自分を見つめ直すこと——。でも、人生は結局、そこにあるものを寄せ集め、柔軟にその場、その場でできることをするしかない。《作業》は続くし、《ごっこ遊び》のようだし、《クイズ》のように謎かけをしてくる。正解はあるようでない。
終盤、タワーの上と下で、息子がいなくなって1人になった男と、父が死んだ男がキャッチボールをするシーンがある。続いて、亡くなった父親と生前、タワーの展望台に上がった時の息子の回想。「お父さん、帰ろう」——。ここまで芝居を作って、ラストは、出演者4人が舞台の上で話し合って決める。まさに、成り行きである。だから、公演ごとに変わる。筆者が見た時の公演では、小さな木箱に4人が乗って寄り添うシーンで終わった。それは、正解のない、偶然な人生そのもののようだった。
出会いと偶然の人生を旅にたとえたのが「ツアー」なら、「タワー」は、人生を演劇という《ごっこ遊び》にたとえる。作っては壊し、作っては壊し、あるいは、その場、その場で出会い、偶然に、しなやかに、ありあわせに寄せ集める。人生も芸術もブリコラージュ的な戯れである。

ままごと「タワー」
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